【感情の波間に漂う悲しみ】
2022年9月4日
文化庁メディア芸術祭名古屋展──。
この展示の話をいただいたのは、母の四十九日が過ぎて少し経った頃だった。問合せのメールの日付を見返すと、急逝した婚約者の命日からちょうど一ト月目──いま当時のことを思い出そうとしても、はっきりとは呼び覚ますことが出来なくなっている。日記などの記録を見返せば、いま目の前で起きている出来事のように鮮明に再現されるだろうが、すぐに呼び起こせなくなっているのは、それが、あまりに強い衝撃で、当時の記憶を脳の深い階層まで沈めているからに違いない。
あれから今回の展示の準備をこなしつつ、何度となく考えたことがあった。
──断ることにしよう──
話を受けた時は、この機会を再起のチャンスとするべく、先立った故人らがこの場に巡り合わせてくれた──そう信じてオファーを受けたのだが、それ以降のぼくの心の荒れようは、自らの期待と予想を遥かに上回っていた。季節が春になっても前向きになれる兆しは見えず、むしろ悪化するばかりだった。そして続く夏を迎えてまでも、回復の兆しは一向に現れる兆しがなかった。
それでも、どうにかここまで辿り着くことができたのは、やはり見えない大きな力が作用してのことだったように思えた。
初日を迎える前日、プレスプレビューの時間を通じて、改めて見通したわが作品──時おり、ひとりで見つめる時間が幾度かあった。そのとき、この作品を手がけていた20年前のこと、この20年間に自分と世界に起こったことが自ずと頭を過ぎり始めた。
──こんな無茶をしたからこそ、このあと、ここまで導かれた──
名も無き作曲家が、何の展望もなくはじめてしまった企て──しかしあのとき、この作品《Long Autumn Sweet Thing》を手がけていなければ、これ以降のすべてはなかったのだ。
──あの歓びも、すべての出逢いも──
同時にそれは、こう言い換えることもできる。
──すべての別れの痛みも知らずに済んだ──
そして──。
──この極限の悲しみさえも知ることはなかった──
しかし、作品を見つめていて、改めて思い知ったことがある。
──ぼくは、本当のことを表現したかったんだ──
森羅万象・喜怒哀楽・希望・絶望・夢・悪夢
そのすべてが揃ってこそ初めて〈生きる〉と言えるのではないだろうか?
いつからかそんなことを考えるようになったのは、紛れもなく、母の介護に向き合った経験があったからだ。
親の老い、そして、死──その一瞬一瞬を見通す営みは、解のない問いに向き合うことと同じだった。すべてが思惑とはかけ離れた展開になる現実に苛立ち、至らぬ自分に幻滅しては自己嫌悪に陥る──努力だけでは制御不可能な事象と分かりながらも現実を変えようと必死に抗い、もがき苦しんだ9年に及んだ行のような時間から解き放たれたのも束の間、支えてくれていた婚約者が一ト月後に急逝してしまうだなんて・・・。
この作品には、ぼくが計画したとおり、記憶を呼び覚ます作用が働くらしい──その自らの企みに、いまはぼく自身が囚われてしまった。
この作品には、数えきれない記憶が宿されている。けれど、こうしてひとり作品をみつめる時間に強く思い浮かべるのは、やはり、冬に先立った2人のことだった。
──ぼくの心を通じて「今」を共有してくれている──
もうこれ以上崩れ落ちないように、自らを支えるため、そう強く思えば思うほど、2人がこの世に不在である現実をより鮮やかに明らかにしてしまう。
その死をもって、ぼくの心になかに2人は移り住み、いつでも思い出しては対話を重ねることができる。しかしそれはまた、もうこの世では2度とは会うことできない事実を改めて告げられているようでもある。同じことをこの8ヶ月のあいだ感じ続けてきたが、未だもって、その想いに触れると、自然と溢れるものが抑えられなくなる。
芸術祭という祭りの喧噪と開幕までの慌ただしさ、そして展示を無事に完成させて期待に応えたいと願う緊張から解き放たれ、いつもの静かな日常に戻った。そしてまた、あの頃と同じように、感情の波間に漂う悲しみが、ぼくの心の核まで、そっと押し寄せ始めている。
いくつかの巡り合わせに導かれ、ずっと望んでいたグリーフケアを次週から受診することにした。
──この心の嵐にどう作用するのか?──
先立った2人が寄り添ってくれていたころのような〈凪のとき〉を再び望むときが訪れることを願って止まない。
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