主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと。そして、それからのこと。

【初めて観た人の死に顔──母と婚約者 ふたつの死(29)】

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2022年5月1日

母の亡骸に会いに行ったのは、息を引き取った翌日のことだった。当日は午前中から死亡診断が病院で行われることになっていた。遺体が戻ってくるのは午後になり、その後、お別れの支度を整えるため時間をいただきたいとの申し出が施設側からあった。そのため、こちらはすべてが整ったところで伺う旨を伝え、それまでは今後の段取りを進めることにした。

まず葬儀社へ連絡し、夕方に現地で打合せをする約束を済ませた。次いで、今は亡き婚約者へ状況を伝えると、東京へ、ぼくのもとへ来たいと連絡が届いた。感染拡大はまだ始まってはいなかったため、ぼくもその旨、了解した。

午後、ひとり家を出た。すると目の前に、黒猫がこちらを向いて座っていた。すぐさま逃げ隠れてしまったが、黒猫が目の前を通り過ぎるのは幸運の兆しだと聞いたことがある。単なる偶然が呼び寄せた些細な出来事かもしれない。けれど、悲しみを未だ自覚できていなかったその日のぼくには、それだけでも確かな支えだと思えた。


──世界が母の葬送を祝福してくれている──


見上げると、眩しいほど蒼く澄み渡った快晴の青空が広がっていた。自ずと、母のあの朗らかな笑顔が脳裏に呼び覚まされた。


──しっかり母を送らないと、ね──


母が暮らした特別養護老人ホームまでは、車で30分ほどの道のりだった。最初に母をここへ預けたのは、2017年のころ。出張中に母をみてもらうためのショートステイをお願いしたのがきっかけだった。あのとき、母と2人で初めて行くこの道を進みながら何を考えていたのか、今でもよく覚えている。


──間に合わなくて、ごめんね──


母にはずっと自宅で過ごしてもらいたかった。母自身も同じ気持ちだったろう。それを果たせる状況を、ぼくは作れなかったのだ。

その翌年、2018年のちょうど今頃からお世話になり始めて2021年師走の初めに母が終を迎えるまで、3年半と少し……長いようで短かかった母の晩年が終わった。その間のちょうど半分の時間を、パンデミックの影響で会えずじまいになってしまったけれど、母はどこへ行っても人気者で、ここでも多くの職員の方に優しく接して貰えていたから、きっと安心な毎日を過ごせたことだろう。ぼくは、時代遅れと言われつつあるFAXを使って直筆の手紙を送り続けた。母の晩年に、こんな形で直接会えない時間があるだなんて想像だにしなかったけれど、ドラマティックとしか言いようがない母の人生らしいと思って納得しようと努めている。

15時過ぎ、施設へ着いて職員の方に案内されながら母の居室へ向かうさなか、息を引き取ったときの様子が伝えられた。


「大好きな音楽を聴きながら最期を迎えられました」


そう伺った途端、瞬時に込み上げてくるものを感じて、ぼくは落涙を必死に堪えた。

居室へ入ろうとすると、見た目からも責任感に溢れているとわかる若い男性職員が、こちらの方を向いて、深々と頭を下げて伝えてくれた。


「申し訳ありません」


彼は恐らく、ぼくが母の終の瞬間に立ち合えなかったことに責任を感じていたのだろう。そう察して即座に応えた。


「詫びていただくことは何も有りませんよ。みなさんのおかげでぼくの負担が減ったのですから、むしろお礼を伝えたいです。有難うございます」


本心からの想いだった。母が自宅内で転落事故を起こしてから特別養護老人ホームへの入居が決まるまでの6年近くの間、何度も何度も闇に沈んだ。母の在宅介護に追われてまともに働けなかったこともある。介護離職(ぼくの場合は、引退)を考えたことも数えきれない。あれだけ苦しく孤独感に満ち溢れた当時の日常のことを思えば、母とぼくを救ってくれたのは、この施設の皆さんだと言っても過言ではなかった。

そんな記憶を回想しながら母の居室に入ると、まず目に入ったのが、丁寧に整えられた床の美しさだ。時刻は、冬の緩やかな午後の日差しが西から差し込んでくるころだったこともあり、母の居室はあたたかな光に満ちて、まるで教会のなかにいるようだった。

母の死に顔は、とても美しく思えた。白く透き通るように見えほど綺麗な母の肌は、生命を終えたそのときでさえも健在だった。その影響か、神々しさを感じるほどの存在感を、母は死してなお放っていた。


──ぼくがよく知る母が帰ってきた──


去る9月下旬、母と最後に面会したときの姿が蘇ってきた。両腕が曲がったまま硬直し、目も虚で口も閉じられず、自慢の笑顔さえ消えてしまっていた。それは、ぼくが知り得ぬ母の姿だった。

あれから二タ月──介護者としての希いがひとつ叶えられた。


──初めて観る死に顔は、母にしたい──


今から四半世紀近く前、友人のご家族の葬儀に立ち会った際に失礼にもそう口にしてしまった蒼き希いを、ぼくはこの日、遂に実現したのだった。


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