【伝説の息子──悲劇のあとの奇跡(4)】
2022年12月5日
仏壇ほか、母と過ごした記憶が棲む品品を手放したあと、即、家路に就く気にもなれず、ぼくはなかば意識的に帰路とは反対方向に車を走らせた。
つい一昨日のことだった。母の命日に向かったのと同じ場所へまた身を寄せたくなったのだ。そこへ行けば、少なくともひとりで時間を過ごすよりは安心できるに違いない──そう心のなかで期していたのだ。
介護施設に併設されたそのカフェ空間は、一昨日に目撃した様子とほとんど変わらず、その地域に暮らすあらゆる世代のお客様が思い思いに時間を過ごされていた。まさにこれこそ、〈穏やかな夕暮れ時〉というに相応しい、安心安全の雰囲気に満ち溢れていた。
ぼくは昨日と同じ、ロールケーキセットをいただくことにした。
──まるで何かの願掛けでもするように──
時折、あたりを見回しながら、人物観察をしていた。打ち合わせだろうか、数人のグループが真剣に顔を寄せあって語り合っている。空間の隅のほうに設置されたコインランドリーの前では、業者の方と思しき女性がひとり、必死にメンテナンス作業している様子が伺えた。年の瀬が迫る中、それぞれが背負った役割を黙々とこなしている──そんななかにぼくはひとり、傍観者のようにそっと身を寄せていたのだ。
いや、今日のぼくにも、背負った使命があったではないか。先祖供養のひとつとして大きな節目と考えていた仏壇の処分を終えたばかりだった。これは同時に、ぼくの新しい未来のための第一歩でもある。いつでもどこへでも旅立てる準備──精神的にも物理的にも──をこの一年進めてきた。未だその準備は途上ではあるが、最も重要で、かつこのうえなく丁寧に執り行わなければならないと捉えていた大きな務めを終えたのだ──そう思うと、ただ心を鎮めているたけのぼくも、この場に身を寄せていることが相応しいように思えた。
──丁寧で静かで穏やかな時間──
こんなひとりの時間も、悪くない──そう思えるひとときだった。
──なにもないのに満たされている──
静寂とは、まさにそんな状態のことを指すのではないだろうか? そしてぼくは、どんなときも、そんな〈静寂〉を求めている──そんな気がしてならなかった。
ひとりの憩いの時間ほど刹那に過ぎるものはない。いただき終えたら、長居せず、即座に立ち去るのみである。
──食べたら即、帰る──
外食をするとき、母がよく口にしていた言葉を思い出しながら席を立とうとすると、先ほどから作業を続けていたコインランドリーの修理が終わったのか、業者の方が報告をするために施設の方を呼び出していた。それを横目にぼくが食器を下げているころ、施設の担当者が現れた。そのときどことなく、ぼくに視線が向けられている雰囲気を感じた。その後のぼくの周辺視野には、業者の方が状況を説明しようとしている様子と、その説明を遮ろうとしている施設の方の手振りが映っていた──その方は見覚えのない職員の方だったが、もしかすると…。
予想した通り、次の瞬間、ぼくは呼び止められた。
「息子さんですよね。ちょっとお時間いいですか?」
「はい。なんでしょう?」
「お母様のお誕生日会で、お手製のパンを焼いてきてくださいましたよね」
「よく憶えて下さっていますね」
「われわれの間では〈伝説の息子さん〉として有名ですから」
──伝説の息子──
思いもようらぬ言葉だった。
終の住処と呼ばれる特別養護老人ホームでの生活は、施設の方にとって、ただ過ぎゆく日常の出来事──この施設での時間を過ごすまではそう思っていた。利用者とその家族のことなど憶えてはいられないだろうし、ぼくらも施設の皆んさんのことをすぐに忘れてしまう──そんな想像をしていたが、それは全くの逆だった。
今もこうして、母のことを憶えてくれている人がいる。それが何より嬉しかった。
母も僕も、どうやら想像以上に、人の記憶の中に残る存在らしい──たったひとりになった今、そう思えるだけで静かな安心を得られた。
やはり今日、ここへ再び足を向けたのは必然だったのだ。
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