主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと。そして、それからのこと。

【母が死んだ夜のこと──母と婚約者 ふたつの死(28)】

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2022年4月30日

2021年の師走に入った最初の日、まだ夜が明けぬままの未明の刻だった。東京には凄まじい風が吹き荒れていて、ぼくは床の中で眠れぬままの時間を過ごしていた。強い風が、安眠のため毎夜閉め切るシャッターを激しく叩く音が絶えず鳴り響いていたのだ。

これまでに聴いたことがないほど騒々しいその物音は、虫の知らせだったのだ。そのときのぼくは、まだそのことに気づけぬままでいた。

轟音が響き渡った夜が明けた12月1日の午後──母が暮らしていた介護施設より電話が入った。高熱を発しているとのことで、医師の指導のもと、投薬などの対処を行ったと報告を受けた。母の状態は終に向かってさらに前進している印象があると先頃から告げられていたが、食事は今も全量を食べられていると伝えられていたこともあって、その報を受けたときでさえ、〈母は未だ生きる〉とぼくは感じていた。

しかしながら、電話口から聴こえてくる看護師の声のトーンからは、これまでとは異なる深刻さが感じられたのも事実だった。


「何時でも構いませんので緊急の連絡はいつでもどうぞ」


念のため、ぼくからそう伝えて通話を終えた。

翌12月2日──珍しく朝早くに介護施設から電話が鳴った。嫌な予感がしたが、内容は、無事に解熱したという報告だった。安堵するも、続けて伝えられた内容に、そろそろ覚悟を決めておく必要があると自覚した。


──腕の硬直が解け始めている──


もうながらく、母には腕の硬直が見受けられていた。それが解け始めてきたのは、自律神経がうまく働いていないサインであることが考えられるという。すると、今後の可能性として、血圧低下が始まる場合が有り得る、とのことだった。それは、母自身の生命維持機能が停止しようとしていることを意味する──ぼくはそう解釈した。

看護師は、あくまで可能性の話である旨を強調し、ぼくの動揺を和らげようと配慮してくれたが、同時に、すぐに面会予約を入れるよう勧めて下さった。即座に窓口へ連絡を入れ、回答を待った。

この介護施設で母を看取る──そう決めて入所したこともあり、延命処置は行わない約束を取り交わしていた。それは母の意志でもあった。しかし、意志確認ができなくなった今、母は何を希うのか? 意志に変わりはないのか? それを知りたいと思っても、もはや知り得ることはないのだ。


──あとどれくらい時間が残されているのだろう──


それは誰にもわかるはずもない──そんなことを考えているうちに、すっかり夕暮れに差し掛かっていた。希望を出した面会の段取りが整ったという報告も未だない。


(こんなときこそしっかり食べて気持ちを整えよう)


表情に現れぬ動揺をひとり静かに感じながら、食材を買いに出かける支度を進めた。着替え終わってから買いもの鞄を手に取ろうとすると、いつもの場所に見当たらなかった。家のなかを探すも、どこにもない。買いもの専用の鞄だから、どこかに忘れてくるはずも……そう思ったとき、思い出した。


──馴染みのビアバーに置き忘れた──


1週間ほど前のことだった。感染者数が激減しいていたこともあり、ぼくはパンデミックになってから初めて、育った街=新宿に出掛けた。冬支度のために、去年から愛用している暖かい靴下を買い求めに向かったのだ。ところが今季は、目当ての品の取り扱いがない様子で、そのまま諦めて、少し離れた街にある馴染みのバーへ移動した。そのとき、空の鞄をそのまま置き忘れて帰ってしまったのだ。


──これは母からのサイン──


「動揺を鎮めるために行ってきたら」


そう言われているのだと都合のいい言い訳をかざして、行先をスーパーマーケットからバーへと変更した。

10年ほど前、母を一度だけここへ連れてきたことがあった。その当時から母の身体に変調の兆しが見え始めていたこともあり、ぼくは今のうちに、母に大切なことを伝えておきたかったのだ。

母がいつか先立つとき、たとえぼくがひとりで遺されても、ぼくには気の置けない仲間たちがいる──それを知っておいて欲しかった。

さらにもうひとつ──その仲間たちにも、母のことを知ってもらいたかった。そうしたら、母が旅立ったあとも、ぼくの仲間たちの心のなかで、母は生き続けることができる──そう希ったからだった。

あれは確か、師走の寒い時期だった。期せずして同じ季節に、ぼくはひとり、抱えきれない気持ちを携えながら、またここにやってきた。そしてその夜も、この10年と変わらぬ時間を過ごしていた。

到着して1時間ほど過ぎたころだったろうか。電話が鳴った。介護施設からだった。


「お母様の呼吸、脈ともに確認できない状態になっています」


今度の嫌な予感は、遂に的中してしまった。

母の死に目に立ち会う──ぼくの唯一にして最大の希いは、こうして潰えた。


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