主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと。そして、それからのこと。

【夕闇に亡き婚約者と母を見送る──母と婚約者 ふたつの死(30)】

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2022年5月1日

「人生、やり残しなし」

在宅介護を続けていた間、月に一度行われるケアマネジャーとの面談で、母は毎回こう口にしていた。面談では毎月、目標を立てることになっていたのだが、母は問われる度にこう応えてはケアマネジャーを苦笑させる……そんなお決まりのパターンでいつも面談はお開きとなっていた。

ぼくはその傍らで、思春期のわが子を諭すような口調で必ず母に伝えていた。


「それは無事にあの世に辿り着いてから言って欲しい」


年齢の順番通り、ぼくが母を見送れるかどうかも保証はない。人は誰しも死と隣り合わせに生きているのだ。そして、母は何の根拠もなく老衰で逝けると思い込んでいたようだが、その確約は無論ない。例え希いが叶えられても、その過程でどれだけの苦痛が本人に及ぶか、自ら経験するまではわからないのだ。

まして、仕事とはいえ、これだけ大勢の介護の専門家を頼って暮らしている今、無自覚な言動をされるのは、とても腹立たしかった。

いつかどこかで母の再会が果たされるのだとしたら、ぜひ訊いてみたい。


──本心はどうだったのか?──


意思の疎通が効かなくなった晩年に何を思っていたのだろう。それを知るには、ぼくも母と同じくらい精一杯生きて、同じ境遇を味わえれば叶うのかもしれない。言葉を発せなくなっても、実は思考は完全に残っていて、口をきくための回路が働かなくなっているだけなのではないか?──老いゆく母を見つめながら、いつしかそんな想像をするようになった。


──いうことを効かなくなった身体という檻──


老いるとは、そんな檻のなかに閉じ込められていくことなのかもしれない。

〈老い〉という母の変化が進んでいくなかで、唯一の心の支えとなっていたことがある。


──母の笑顔──


人は、泣き叫んで生まれたあと、最初に手に入れる感情が〈笑う〉ことだという。その後、成長する過程でたくさんのものを手に入れ、老いてゆきながら、その一つひとつを手放していく。だとすると、最後に笑顔さえも手放したころ、いよいよ終が迫っている──ぼくのそんな予想どおり、母と最後に面会したときには、あの晴天を突き抜けるような笑顔は失われていた。


──嗚呼、やっとここまで辿り着いた──


母の後を追うようにして、突然急逝した婚約者を憶うばかりに、ぼくには、母の喪失に深く感じ入る余裕がなかった。しかし今、ようやく果たされた。


──母に向けた涙を流している──


2021年12月3日──母の法的な命日となった日、母の居室に何名もの職員の方が「お母様にお別れを」と挨拶にきて下さった。なかでもエンジェルメイクを施して下さった方は、涙を浮かべてお別れを告げて下さった。


──ここに導かれて良かった──


若くして夫に先だ立てるという悲劇を味わったけれど、母はやはり、幸運だったのだ。運を自ら手繰り寄せ、人生で一度たりとも独りにならず、自らが望んだ通りの最期を手に入れた。「葬儀はしない」と希望していたが、母の周りには、その別れを惜しむ人たちがこんなにもいたのだ。


「人生、やり残しなし」


まさに母が口にし続けていた通りの幕切れだった。

葬儀社との打合せを終えたころ、今は亡き婚約者が到着した。母の遺体を葬儀社に引き渡す時間が迫っていたので、あまり長い時間は取れなかったのだが、しばらく2人で母とのお別れの時間を過ごした。

母の遺体は、白く輝く衣に包まれ、丁寧な所作でストレッチャーに移された。これで、この終の住処を後にする。玄関まで案内してくださった職員の方も涙混じりの声だ。

エレベーターに乗ると、下階へ向かうはずが、最上階へ昇ってしまった。思わず皆に笑顔が溢れた。母らしい労いの表現でぼくたちにお別れを告げてくれているような気がした。

一階に着くと、予想していなかったことが起きていた。大勢の職員の方が、母を見送るため、待ち構えて下さっていたのだ。

霊柩車に母の遺体が移され、全員で母を見送った。お気持ちを届けて下さった皆さんにお礼を伝えたいと口を開いたが、多弁なぼくが言葉に詰まって、ただこう伝えるのが精一杯だった。


「普段なら気の利いた言葉を用意しておくんですけど……有難うございます」


ぼくの傍らには、今は亡き婚約者が、そっと寄り添ってくれていた。

見送った後、母の荷物の片付けを彼女が手伝ってくれた。そのなかに、生涯手放せないものが今もわが家に残されている。

2020年12月17日──ぼくの50歳の誕生日に母への感謝を綴って贈った手紙である。クリスマスシーズンにちなんだベルや花々で彩られた台紙に貼られ、そのうえラミネート加工まで施された状態で母の居室に飾られていたものだ。彼女が荷造りの手を止めてその手紙をじっくりと読んでいた姿が、今も目に浮かぶ。


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