主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと。そして、それからのこと。

【彼女が育った街で出逢った奇跡──母と婚約者 ふたつの死(19)】

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2022年4月8日

母の喪失に備えて、グリーフケアや悲嘆に関する書籍を読み始めたのは、今から5年ほど前のこと。知識を蓄えておけば、予想できない悲しみを乗り越えるために役立つのではないか? そう考えて取り組んでいたことだが、同時に、絶えず頭の片隅から離れなかったことがある。


──経験するまでは、そのときの気持ちを知ることはできない──


恐れていたことが、今、現実になっている。

ただ、今日はいくらか穏やかな気持ちが長らく続いた。それは、この本の言葉によるものかもしれない。


──死別は、国立がんセンター名誉総長でさえ、酒浸りにさせる──


職務として、誰よりもそうなってはならないと理解され、かつ、ご遺族にも注意を促してきた方でさえ、悲痛な現実に激しく苦悶する──それが〈死別経験〉なのだ。

本のなかには、ご本人の事例として、再生の兆しを感じられるようになるまでの目安が記されていた。


──3ヶ月──


まもなく、彼女との死別から3ヶ月が経とうとしている。

悲しみに未だ暮れながら思い出すのは、お別れ会の翌日の昼間の出来事だ。あの日は午後の中ごろから出棺が予定されていた。ぼくはそれまでに、とても重要な私用を済ませる必要があった。


──処方薬の再処方を受ける──


主治医から処方されている薬の手持ちが底をつきそうになっていたのだ。滞在は既に予想を上回る日数になっていたため、ぼくは身の安全を考慮して、ご家族から紹介された病院へ向かうことにした。前夜、地図アプリで確認すると、滞在先から徒歩数分の場所にあることがわかった。道順を記憶に留め、翌日午前の受診を決めた。

翌朝、記憶を頼りに街を歩いた。晴れてはいたが少し風の強い日だった。広々とした道路から見上げた空がとても勇大に感じられる。まるでかつて旅したベルリンの空を思わせる広大さだ。

どれだけ自然の豊かさがぼくを慰めてくれようとも、この孤独は癒せない──きっとぼくは正気を失っていたのだろう。悲しみに支配されたまま歩いていると、ある交差点に辿り着いた。そこには、絶景が見渡せることを知らせる名が記されている。信号待ちの間、その頂を望もうと四方を見渡してみたけれど、それはどこにも見当たらなかった。その代わり、彼女が通った小学校がそばにあった。


「こんな伸び伸びとした環境で育ったんだな」


青空に突き抜けるような彼女の笑顔の秘密を知れた気がした。

そのまま何も考えず、信号を渡った。向こう側に停められた工事車両が歩道を塞いでいる。

それを横目にさらにしばらくいくと、ようやく正気が戻ったのか? 道を間違えたことに気づいた。改めて地図アプリで確認すると、先ほどの交差点を曲がる必要があったらしい。すぐさま戻ろうと振り返りながら道路の向こう側に視線をやると、まさか……。


──彼女を送る斎場が目の前にある──


膝から崩れ落ちそうになった。よろめきながら進み、近くの塀に手をついて身体を支えた。


──なんて運命のいたずらだ──


呼吸を整えてあたりを改めて見渡すと、ずいぶん洒落た設えの理髪店が目に入った。


「身だしなみを整えなさいというサインだ」


そう直観して、店のドアを開いた。

今夜、通夜に参列すると事情を説明して顔剃りをお願いできないかと訊ねるも、予約客しか受付けていないとのこと。この時世、当然の判断である。そこで思い出した。通りがかりに美容室があったことを。通常、美容室で顔剃りはできないと知りながら無理を承知でお願いしてみたが、やはりここでも断られた。

こういうときこそ、地図アプリに頼るが吉である。周辺の理容室を検索してみると……今度は選ぶのに困るほどの選択肢が現れた。

できれば、向かう病院の近くがいい──そう思って地図を動かすと、なんと滞在先から100メートルほどのところにもあった。


──必要なものは、いつもすぐそばにある──


些細な偶然である。しかし今のぼくには、先人たちからの金言を物語る、心の支えになるエピソードのように思えた。


──もう一度、いま来た道を行く──


すると、あの絶景が見渡せることを示す交差点に再び近づいた。そして次の瞬間、ぼくは絶句した。

目の前には、見事としか言いようのない絶景が出現していた。先ほどまでは、雲に覆われてその姿が完全に隠されていたのだ。ぼくが道を戻る間に、強風が雲を動かしてくれたのである。そしてこの強い風が、その頂から舞う雪を天の川を描くように煌びやかに瞬かせていた。

あっけにとられながら交差点を見渡すと、行きに見かけた工事車両が姿を消していた。そして再びぼくは絶句した。その車両の影に、向かっていた病院への道案内板が設置されていたのだ。


「この景色をぼくに見せたかったんだな」


いたずらな微笑みを浮かべている彼女の表情が記憶に蘇った。


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