主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと。そして、それからのこと。

【世界一幸運な男〈後編〉──母と婚約者 ふたつの死(16)】

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2022年3月27日

退所手続きは、事務的に済ませればわずかな時間で終えられるものだった。しかし、多弁なぼくだから、こうして綴っているような、これまでの思い出や様々な気持ちの移ろいまでもお話しさせていただいた。

その時間はまるで、グリーフケアのようだった。

お預けしたままだった母の荷物を受け取り、施設を後にした。車のルームミラーからは、見えなくなるまで見送ってくださる職員の方の姿が見えた。日常の過酷な業務の最中に、当たり前のことを当たり前のこととして施して下さる姿勢に、改めて、こちらの施設に導かれたのは幸運なことだったと感じた。

いつもの帰り道を行く──4ヶ月前の冬の帷には、ぼくの隣に彼女が乗っていた。母の喪失に思いのほか悲しみが湧いてこなかったのは、ぼくが9年も掛けてこの日に準備していたからでは無論なかった。


──彼女がそばにいてくれたから──


母を亡くした日、ひとり悲しみに暮れ崩れ落ちてもおかしくないときに、ぼくを支えたいと、感染のリスクを推してまで遥々東京まで駆けつけてくれた、そんな彼女の優しさがあったからだ。

そのことを思い出して……いや、いまはっきりとわかって、ひとり嗚咽した。

振り返れば、ぼくの始まりのときからそうだ。父はぼくの誕生と入れ替わるようにして先だったが、朗らかで生き抜く力を備えた母のもとに生を受けたお陰で、今日までのぼくがある。やりたい仕事にも恵まれ同志と思える仲間もできた。馴染みの酒場に出かければ掛け値なしにぼくを迎えてくれる友もいる。

そして、こうしてずっと支えて下さった、大勢の介護、医療関係者がいる。家族のストーリーに耳を傾けてくれる、こころの通ったケアが受けられ、母が望んだ老衰での終を叶えて下さった施設の皆さんがいる──。

彼女が急逝する前日、母の海洋葬を行う海周辺の下見に向かった。その道中、ずっと聞いていたのは、彼女と2人でよく観た映画《About Time》のサウンドトラックだった。

その中に、映画用にアレンジされたベン・フォールズの歌がある。映画のテーマソングと言ってもいい一曲だ。


〈The Luckiest〉


この曲を聴き続けながら、母の喪失を体験してなお、ぼくは世界で一番幸運──そう信じようとしていた。

その翌日、彼女が危篤となった。それからずっと、憤りのような感情で考え続けていた。


──ぼくのどこが一番ラッキーなんだ?──


けれどやはり、ぼくは世界一幸運な男だった。春を迎えたその日、未だ収まることを知らない強くて深い涙と共に、そのことを再びこころから呼び覚すことができた。

今は母と彼女が、ぼくの新しい支えになった。涙で曇って見えなくなっていたその真実が、ようやく姿を表そうとしている。


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