主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと。そして、それからのこと。

【真夜中の儀式──母と婚約者 ふたつの死(14)】

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2022年3月25日

今日、空を見上げて想った。


──遂に春がやってきた──


この寒い冬にふたつの死別を体験したとき、ふと感じたことがあった。


──春よ、早く来い──


春が来さえすれば大丈夫。そのときすべてから解き放たれる──そう祈っていた。

しかし現実はどうだ? 解き放たれる気配は無論ない。それどころか、今日の陽気に包まれたぼくは咄嗟に想った。


──春が来てしまった──


あの冬の真っ只中に未だ居続けたい──そこから離れてしまうと、死別とはまた違った何かを喪ってしまう──そんな感覚に突然襲われたのである。

こんなにも苦しいのに、未だここに居続けたいだなんて……。


──どうかしている──


しかし今振り返っても、彼女の死に向き合っていた時間の出来事は、苦しみと悲しみと怖れだけに支配されていたわけではなかった。それはなぜなのか? こうして言葉にしながら、もうしばらく探求したい。


現地入りしてから4日目の未明、約束の時間から僅かに遅れて病院に到着した。エレベーターでICUのある階へ上がり扉が開くと、真っ暗なフロアのなかで担当の方がぼくの到着を待ち受けて下さっていた。ICUに入る前に、この3日間、ずっと寄り添って下さった医療チームの方々から、改めて現在の状況の報告などを受けた。担当医からの説明は、「翌朝、ご家族が揃ったところで改めて」とのお話だったが、これも医療チームからぼくへの計らいだった。


「ふたりになる時間、なかったですものね」


医師の立ち会いがあると気を遣ってしまう──そう察して下さったのだろう。

準備が整い、入室の許可が下りた。控室を出て、真っ暗な廊下を歩いた。背筋を伸ばし、俯かずに歩いた。そして、胸を張り、一歩ずつ確かな足取で進み、生を全うした彼女の人生の締めくくりに恥じないように、怖れを振り払いながら、前をしっかり見ていた。

ICUへ。最初のドアが開き、左手にあるシンクでまずは手を洗う。ペーパータオルで水気を拭ったあと、備え付けのアルコール消毒液で手指を消毒する。その後、次のドアが開かれ、処置室へ進む。迎えて下さった医療チームの皆さんは想像したよりも多かった。皆さんに気持ちが伝わるように、動作が流れないよう意識しながら、しっかりと都度立ち止まって挨拶を繰り返す。そうしてゆっくりと歩を進めながら、彼女のもとへ向かった。

彼女の個室では、ぼくの音楽が流されていた。《A Small Hope》──小さな希望というタイトルのアルバムだ。彼女が愛してくれた音楽が今、ふたりを包んでいる。

人生を表現し尽くさんと、森羅万象・喜怒哀楽・希望・絶望・夢・悪夢──そのすべてを網羅した多様な展開を有する音楽で、何より、この難局を彩るには相応しい音楽だとぼくには思えた。

彼女のベッドの傍に立った。人工呼吸器で今も心肺機能は維持されている。ここ数日見守り続けた様と、なんら変わりはなかった。

彼女の顔を見つめながら、伝えた。


「素晴らしい経験を授けてくれてありがとう。これから、よろしくお願いします」


これは、届けられなかった婚姻の言葉だった。周りで見届けてくれた医療チームがその証人である。


──午前2時1分、脳死による死亡宣告──


聴覚は最期まで生きる──そう伝えられているものの、彼女の脳波は、一度たりとも復活しなかった。科学的には脳が機能していない限り、聴くことはもちろん、感じることもできない──そう考えるのが妥当だ。それでも……。


──ぼくたちは目に見えないものを信じてきた──


音楽はまさにその象徴である。


──きっと伝わっている──


ぼくの音楽も、ぼくの言葉も、ぼくがそばにいることも、ぼくの手の温もりも。


「私は60歳くらいまで生きれば十分だから、そのときは浩介さんが看取ってね」

「お互いにいつその時が来るかわからないから約束はできないけれど、その順番が守れたら果たすよ」

「浩介さんはモテるから、私がいなくなってもすぐにまた別のお相手が見つかるから大丈夫」

「その言葉、そのまま返すよ。〇〇さんほどチャーミングなら、ぼくが先にいなくなっても大丈夫」


大丈夫、大丈夫、大丈夫──。


お互いにそんな風に冗談を交わしつつも励ましあいながら過ごした、あの愉快で安心な毎日は、これで終わった。


──ぼくは約束を果たしたんだ──


不思議だった。このとき、悲しみは湧いてこなかった。それどころか、ぼくたちだけが叶えた門出に相応しく、どこか晴々しい想いに満たされていた。


──もしかして、悲しみを乗り越えることがもうできたのか?──


無論、そんなはずもなかった。遺されたものの悲しみが消え失せたわけではないことを、ぼくはこれから思い知らされていくことになった。


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