【涙と共に感謝を伝える──母と婚約者 ふたつの死(6)】
2022年1月31日
今日も目覚めた直後から、心に収めたはずの疑義が沸き立ち始めてしまった。うがいをして白湯を飲むという日課にしている自律神経を整える儀式を済ませてから、いつものようにノートに向かい、感情を吐き出した。自らの思考を整理するためである。
結論は、これまでと変わることはなかった。彼女がまさに先立とうとしているとき、これからの人生を前向きになれるようにと、奇跡の時間を授けてくれたのだ。
──後ろを向く必要はないよ──
そう彼女が伝えてくれようとしている。そのメッセージを、昨日もある出来事から受け取った。
──だからもう、前を向くのだ──
さて、話は危篤の報を受けた翌日、現地へ向かうところへ戻る──。
コロナ禍以前、仕事の都合で何度となく訪れた東京駅に着いた。行き先を確認してホームに立ってなお、今、自分が何のためにどこへ向かおうとしているのかさえよくわからない気がした。ぼんやりと列車を待っていると、目の前に老夫婦の姿が見えた。この時期にどこかへ旅行だろうか? それとも地元に戻られるのだろうか? 肩を寄せ合って列を成し会話をされる姿に愛おしさを覚えると同時に、激しい嫉妬の感情が湧いていることに気がついた。
──ぼくたちにもこうした未来があったはずなのに──
「未来のことは約束できません」
これから先を共にゆかんとする相手に対してこう告げたぼくは、極めて非情だったのかもしれない。しかし、それがぼくにとっての誠意だった。
──明日のことは誰も知らない──
だからこそ、「今」を大切に一歩ずつ共に進んでいきたい──そんな願いを込めた言葉だった。
「ただ、一日でもながく一緒に過ごせるように
努力をします」
きちんとそう伝えて、言動に表してきた。彼女もぼくの思いを察してくれたと感じている。
それから時を重ねていった。永い間待ち侘びていた、愉快で穏やかな、そして何より待ち遠しい時間を、である。しかし一年と経たぬうちにコロナ禍となり、会えないままの時間を過ごすことになった。それでも、ぼくたちは確かなものをお互いに育むことができたのだ。
──努力が実らないこともある──
いや、これは実らなかった努力ではなかった。ぼくたちは成し遂げたんだ。誰もが望む確かなものを育むことを。しかもこれだけ短い時間に、実際に会うことさえままならないままに……。
ホームでひとり、心のなかでいくら言葉を重ねても何も収まるものはなかった。ただただぼんやりしながら、列車内が清掃される様子をみつめ、ホームに立ち尽くすままだった。
すると、先頭に並ぶ女性の足元に切符が落ちていることに気づいた。だいぶ踏みならされて汚れているようだった。
──彼女の切符ではないかもしれない──
この時世に声をかけるのも憚れるし相手は若い女性だ。余計に気を使ううえ、今のぼくは自分のことで精一杯……そんなことを考えている間に、ぼくは既に声をかけていた。
「ありがとうございます」
やはり彼女の切符だった。
つい一ト月前、同じ東京駅でのこと──母の葬儀に駆けつけてくれた彼女を見送るとき、似たような場面に出くわしていたことを思い出したのだ。改札へ向かっていると、困っている方が前方に現れ、ぼくは何の躊躇することもなしに声をかけていた。傍にいた彼女はそっとこう伝えてくれた。
「あなたらしいね」
──今日もちゃんとできたよ──
その瞬間を思い出して、また込み上げてきた。
願掛けでもしたかったのか、今日は彼女がくれた手編みの帽子を被ってきた。外でなくさないように家の中でしか被らなかった大切な帽子だ。わが家の冬場の寒さを案じて、一昨年の誕生日祝いに贈ってくれたものだ。お友達からは「いい歳して重たい」だのと揶揄われたようだが、ぼくはとても嬉しかった。ぼくのために、時間と想いという掛け替えのないものを込めてくれたのだから。
「今年も帽子の季節がやってきました」
たった数日前、帽子を被った様を写真に収めて送ったばかりだというのに……。
深く被ったその帽子とマスクがあるお陰で、その隙間から溢れるものは目立つことはなかった。ただ、そこから先、現地へ到着するまでの時間、ぼくは、ずっと泣いていた。ひとつ席を空けて座っていた女性は何事かと思っていただろうが、ぼくはところ憚らず、泣き続けた。
涙を流しながら、ぼくは誓った。
──どんなに泣いても、有難うと云おう──
彼女のために、そしてぼくの不安を晴らすために泣くことは、詫びることじゃない。彼女に、そしてこの旅で出逢う全ての人に感謝を伝えよう。
──有難うございます──
有ることは難しい──それ故の言葉を。まさに今こそが、贈るに相応しいときだ。
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