主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと

【Who are you?──だからこれでいい】

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2018年8月8日

またもや破損した母の義歯修理のため、母が30年間以上お世話になっている横浜の歯科医院まで付き添った1日──。

台風の方角へ向けて車を走らせるだなんてよほどの事情がない限りしないが、義歯がない=食事がうまく摂れないことにも通じるため、向かう決心をした。

幸い、雨も風も予報よりも穏やかだったが、母を預けている特別養護老人ホームからの道のりは初めてということもあって、前日から少々緊張気味だった。昼過ぎに母を迎えに行ってから横浜まで往復して、再び母を送り届けてから帰宅すると、予想以上の疲れに見舞われていた。ほんのわずかな間でも、雨ふりの日に母を介助するというだけで気忙しい気持ちになる。その焦りが、余計に気力体力を消耗させる。

結局、下の義歯はすべて作り変えることになった。春に相当な補強をしてもらったのだけれど、それを支える歯が2本、折れてしまってはどうしようもない。義歯製作期間と調整を含め、あと2回通う必要があるらしい。あいにく、次週はお盆休み、再来週はぼくの出張が入っている──タイミングがあわない──最短でも9月初旬まで今の状態が続く。

方針が決まれば後は対処するだけ。早速歯型を取ってもらう流れになり、予定外の長い待ち時間が与えられた。Kindleで本を読もうか、それとも瞑想しようか、と試してみるも、お盆前に治療を求める多数の患者さんの出入りが激しく、まったく集中できなかった。

付添いのぼくが待合室に座っているのも気がひける。そんなときはいつものように、パーテーションで仕切られたキッズルームに身を潜めるのがいい。

改めてキッズルームの様子を眺めていると、都度、少しずつ更新されていることに気づく。壁には背丈を図るシールのメジャーが添えられているし(140センチを超えたらもう子供時代は終わりらしい)、なんだか惹きつけられる素敵な絵も加えられていた(月明かりの下、蓮池に集うカエルのオーケストラは何を歌っているのだろうか?)。お金に関するセンスを磨くためかレジスターを模したおもちゃもある(適当に入力した割算の答えが1並びになって、つい驚いてしまった)。


──子供たちもそんな発見をしたりするのだろうか?──


たくさん用意されている絵本に目をやる。


──「知っている絵本はあるかな?」──


目に留まったのが、この、初めて出逢った一冊だった。


──《どれがぼくか わかる?》カーラ=カスキン作 よしだ しずか訳──


咄嗟に、いまのぼくの気持ちを映していると感じた。最近の母は、さらに認知機能が衰えて、ぼくのことさえ忘れかけている。会いに行くと、いつも元気に手を挙げて笑顔で迎えてくれる様子に変わりはない。それでも、和かに笑いながら尋ねてくる。


「どちら様ですか?」


現世の記憶など携えたままでは、とてもあの世には旅たてない。


──だから、これでいい──


いつも言い聞かせてきた──そう、必死に言い聞かせてきたんだ。このときが訪れた瞬間に崩れ落ちないようにするために。

しかし、それが本意ではないことは言うまでもなかった。

母はたまに、昔勉強した語学の記憶を呼び覚まして、ぼくに尋ねてくる。今日も歯科医院の待合でこんなやりとりがあった。


「What are you?」


即座にぼくが切り返す。


「whatって、ぼくはものかい?」


母もさらに応じる。


「Who are you?」


正しい文法に則って間違いを訂正して言い直した。

記憶は実に不可思議だ。想い出や昔の出来事は忘れ去っていっても、言語や身体の使い方は、だいぶ晩年になるまで残る──かつて本で勉強した通りの事象が、いまの母にもはっきりと現れている──でも、ここから先は、もうなす術がない。今できるのは、ゆっくりと元にいた棲家に戻りゆく母を見守ることだけだ。


けれど、それがこんなにも苦しいことだなんて…。


誰かに教えられても、わかるはずもなかった。


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