主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと。そして、それからのこと。

【高速道路のうえから救急車を呼ぶ】

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2018年11月14日

母の体調も落ち着いてきたので、長らく中断したままだった義歯の修理をいよいよ再開することになった。遥々、車で1時間以上をかけて、母の掛かりつけである横浜の歯科医院に向かった。

出発前、母を車椅子から助手席へ移乗させる際、少し気になることがあった。


──自立することができなくなっている──


先の5週間の入院は寝たきりだったし、退院に向けたリハビリも大きな効果は得られなかったから、こうなるのも当然と言える。

道中も、どこか元気のない様子だった。パヴァロッティの歌(プッチーニ作〈誰も寝てはならぬ〉)にさえほとんど無反応。疲れているのか? それとも何か他の問題が起きているのか? 十分なコミュニケーションが取れなくなっている今では、察しようもなかった。

元気がないお陰で、いつかのときのように車中で暴れることもなく、無事に歯科医院に到着するも、今度は、車から入口までのわずか5メートルの距離で立ち往生してしまった。一旦、助手席に母を抱え上げるように戻し、ぼくは車椅子を用意した。


──もう歩けないのか?──


診察室には、歯科医院に常備された小型の車椅子に乗り換えて入った。診察台にも移せなかったので、車椅子に乗ったまま義歯の噛み合わせを調節していただくことになった。

医院側も慣れているのか、特に問題なく調整は終了したが、母はとても疲れた様子だった。


──ここに通えるのも、今日が最後になるかもしれない──


来た時と逆の手順で母を車に乗せると、以前、車中で母に暴れられ疲弊していたぼくの様子を知るスタッフの方から労いの声がかかった。


──お疲れではないですか?──


その日は、朝早くに起きて、いつもの日課をしっかりとこなした。そして、以前のことを振り返りながら今日の付添いの注意点を検討したうえで、さらに、祈りを捧げた。


──無事でありますように──


その話を声をかけて下さったスタッフの方にすると、その方も毎朝祈っておられるのだという。


「クリスチャンなんです」


祈りが何かを変えるわけではないかもしれない。けれどそこには、確かに、誰かの無事を願う想いがある。


──ただ祈る──


それだけで十分なのだ。


だからぼくは、今日のいかなる状況にも左右されなかった。この次にやってくる予想だにしなかった出来事に遭遇したときでさえ、極めて冷静だった。

帰り道、お腹を空かせているであろう母に、好物のあんぱんを一口食べさせた。そのとき、少し喉に詰まらせた様子がうかがえた。幸い、うまく飲み込めなかっただけで、パンは口のなかに残されていた。即座に吐き出させ、水を飲ませた。喉仏は水を飲み込むたびしっかり動く。むせ返る様子もない。つまりこの場合、喉は詰まっていないと思うのが自然だが、どうも母の様子がおかしい。

診察後、車に移乗する際、完全に脱力して膝から崩れてしまった。きっとそのとき、相当な心肺への負荷がかかったのだろう。

最終的に、その不調は一時的なものだったことがわかったのだが、帰りの第三京浜道路であまりに朦朧とした様子を見せるので、安全に路肩に車を停め(車外にでるようなことはせず──人身事故を引き起こす可能性があるため)、救急車を要請した。

高速道路上(正確には、第三京浜道路は、自動車専用道路という区分)からの要請のためか、救急車が到着する前に、まず消防車がやってきた。次いで救急車、高速道路管理者、そして警察までもが応援に駆けつけて下さった。そんな物々しさのなか状況を冷静に説明すると、救急隊から「医療関係の方ですか?」と訊ねられた。


「もう6年ほど母を介護しているものですから」


そう応えると、夏の終わりにぼく自身が救急車で運ばれたときに感じたのと同じ、言葉では伝えることのできない労わりの感情が贈られたような気がした。あのときも、介護者として疲弊した日々のことを伝えたのだった。

そんな会話をしているうちに、母の体調は落ち着きを見せはじめていた。現在考えられる状況とこれから想定される事態を救急隊と確認し合い、要請をキャンセルする旨を書面にサイン。母を再び自車へ戻していただき、救急車に先導されるようにして本線へ戻り、1時間後、母を施設へ無事に送り届けた。

施設には、戻る前に状況を伝えていただけあって、到着後の対応はとてもスムースだった。


──血圧・心拍数・血中酸素濃度ともいつも通りに回復──


ぼくはこれまでと変わらぬ調子で今日のエピソードを笑いに変えながら伝達し、その日の使命を終えた。


顔も名前も知らない誰かのために、あれだけ大勢の人たちが支えてくださり、無事を確認して「良かった」と言ってくださる──危機の中に必ず潜んでいる「人の暖かさ」を、どんなときも見逃さないようにしたい。

母ますます小さくなっていて、今では助手席にいても、その存在を感じられなくなりつつある。


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