【大切なものはいつもそばにある】
2018年10月29日
退院以来、初めて母に会った。西陽の差し込む部屋に移って、母は和かに音楽を聴いていた。
施設の方に様子を聞くと、退院してからよく食べるようになったらしい。嚥下機能向上のためのリハビリも入院中にしていただいていたから、その効果が現れているのだろう。自分でスプーンを持って、食事を口に運んでいるようだ。
──まだまだ、生きる気力に溢れている──
母の体調と相談しながら、既に修理が完成している義歯を合わせに横浜の歯科医院へ向かいたい。歯が入っていないせいもあって、今は殆ど発音が聴き取れない。それでも、このところ話す言葉は限られているから、母音や子音の僅かな部分から察して、正解を導き出している──そんな芸当ができるようになったのは、それだけ母との時間を過ごしてきたからだった。
言葉の替わりに、母はとびきりの笑顔をぼくに向けてくれる。ぼくが誰なのかはもう殆どわかっていないのだけれど、ぼくの顔をみては、微笑みを浮かべる。
「そんなに楽しいの?」
そう伝えると、母は顔をくしゃくしゃにして笑いながら、元気いっぱいに指でOKサインを作ってぼくにアピールしてくる。
「よかったねぇ」
そう応えると、次の瞬間、ぼくは不覚にも天を仰いだ。
昨日の夜、母が使っていた居室から居間に足を踏み入れた瞬間、老いて身体が小さくなった母が、わずか10センチの幅の敷居を一生懸命またいで渡っていた姿が蘇ってきて、咄嗟に嗚咽してしまった。
時おり、そうした瞬間に見舞われて苦しくなる。
──ひとりでよかった──
こんなときは、そっと静かに過ごすのが性に合っている。
夕暮れに差し掛かった街は、秋らしい色に染まっていた。ぼんやり景色を眺めながら、無意識に、我が街の風景に、これまで目にした国内外の車窓からの風景を重ね合わせていた。
──京都・高松・バリ島・ロンドン・ベルリン・台北──
旅先で見る景色はどれも新鮮に映る。しかし、よく目を凝らしてみれば、ここにも探し求めている美しさや穏やかさがあるのだ。
──いつもそばにある大切なものに気づくとき、自ずと穏やかな気持ちになれる──
目覚め始めたわずかな騒めきは、こうして暴走する前に静まった。
ほんの少しだけ、疲れているんだ。またには自分に優しくしてみよう。
今日、母の居室に腰掛けていると、不思議な感覚に包まれた。
──大きな何かが、ぼくを背中から包んでくれている──
(大丈夫。何も心配はないから)
その安心感は、少し背中を丸め気味に腰掛けていたぼくに、そう伝えてくれているようだった。
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