主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと。そして、それからのこと。

【母の乱心──叩く・蹴る・噛む・抓る】

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2018年8月29日

沖縄出張から戻って中1日で横浜に向かった。母を歯科受診に連れて行くためだ。疲れはまったく収まる気配はなかったが、1日でもはやく、母の義歯調整を進めたかった。

下歯の義歯が破損してからもうだいぶ時間が経ってしまった。それだけが原因ではないにせよ、最近の母の認知力の低下は著しかった。記憶が遠のきぼんやりするだけならまだ良かったのだが、認知症患者に多く見受けられると言われる暴力的傾向が少しずつ強まってきている印象がある。

今日は、道中の車の中で、わがまま放題になり、一時取集がつかない状況に陥りそうになった。構ってほしい欲求の表れなのかもしれないが、高速運転中だったこともあり、久しぶりに怒号を飛ばし威嚇するようにして収束させた。不本意だったが、あの瞬間はそうするしか方法が浮かばなかった。

ぼくたちだけが単独事故を起こすなら仕方がない。でも、事故は必ず周囲を巻き込む結果になる。それだけはどうしても避けなくてはならない。

そんな理屈を今に母に説明しても、事態は収まるはずもなかった。母は何食わぬ顔で同じことを繰り返した。


──黙れ!黙れ!──


怒りの感情が抑えきれなくなり、思わず2度、そう叫んだ──母は無視するように、かかっていた音楽に合わせて歌い出した。音楽を停止させようと電話の画面を操作するも、こんなときに限ってタッチパネルがうまく働かない。仕方なくケーブルを引き抜き、電話もホルダーからむしり取るようにして取り外し、母から見えないようにズボンのポケットにしまった。

多くの居宅介護の現場で、または介護施設内で、こうした出来事が日常的に起きている──運転を続けながら、そんな光景を想像した。誰かの献身なくしては成り立たない現実が、今、溢れかえっている。


──誰の目にも触れない場所で──


歯科医院に到着したときには、既に次週の受診のことを考えていた。


──施設の職員の方に同伴願おう──


周囲の安全を考えると、ぼくひとりで対応することは、もはや不可能だと判断するのが妥当だ。今日のエピソードは、まさにそのことを伝えるために起こったと言っても過言ではない。

母のわがままは、受診中も収まらなかった。その態度は、癇癪を起こした子供と何も変わらなかった──これは母のせいではない。


──すべて病のせい──


どんな認知症の本にも記されているそんな理屈では、その様子をその場で見つめていた誰もを納得させることはできそうになかった。

主治医もお手上げになりかけていたが、母をどうにかなだめて、仮で仕上がった義歯の調整を実行した。途中、上歯も全面的に作り直す必要があるかもしれないと告げられ、9月も毎週通うことになると覚悟を決めたときのあの気が遠くなる感覚は、この6年の間に何度か味わった、どこか憶えのあるものだった。

診察を進めると、上歯は維持できそうとのことで安堵したが、次週またここにくることには変わりない。

一般道も高速道も、いつでも路肩に寄せられるように常に一番左の車線を走行する──。
母が興奮しないように道中は音楽をかけない──。
水筒は目につかないところにしまう──。
気を使って構うとわがままを助長するので、一切無言を貫く──。

帰り道に実際にシミュレーションしたところ、ここまで徹底すれば安心度が高まりそうな手応えがあった。

歯科医院を出るときも、構って欲しさゆえのわがままが続いたので、じっと目を見て、ゆっくりと諭すように話をした。


「たくさんのひとがあなたにためを想って動いてくれているんだよ。いくらじゃれあいの気持ちだとしてみ、そんなひとを打ったり蹴ったりするなんていけない。子供の時代と同じように、老いた今はひとの手を借りないと暮らしていけないんだ。だから、手を差し伸べてもらったら『ありがとう』ってお礼を伝えなさい。ぼくもこうして、今、目の前にいるあなたに教えられて育ったんだ」


今の母の記憶は、点でしかない。その点同士を結びつけることも保管することも到底できない。子供が成長していく過程で備えていく「相手を想う心」を育ませることもない。


──どんな理屈も、痛みを癒すことはできない──


だからせめて、必死な態度で示したい。

今日、母を迎えに施設に到着すると、異様な光景が目に止まった。いつもはアスファルト一色の駐車場が、すっかり泥で覆われている。事務所の棚などが外に出されていて、それは明らかに浸水したあとの様子だった。一階の設えには、報道でよく見たことのあるシミが、床上30センチほどのところに残っていた。伺えば、一昨日の大雨の影響によるものだという。バリアフリーの建物ゆえの弱点を襲われたかたちだ。

母の乱心も、まるでこの頃の荒れ狂う空模様のようだ。秋の到来と共に穏やかになってくれたらいいのだけれど、それはあくまで希望的観測にすぎない。


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