主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと

【ひとりよがり】

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2018年8月10日

昨日の母の態度が、頭にこびりついて離れない。


──途方に暮れる──


母に背を向けられたときの気持ちを言葉にするなら、きっとこうだ。

どうしたらこの気持ちを手放せるのか見当も付かなかった。ただ…母を見守り続けたこの6年近くの時間を思うと、その光景はあまりにも物語性に溢れているように思えた。そして思わずシャッターを切った。

しばらくすると母はまた向きを変え、ベッドの手すりを伝うようにして進み、今度は洗面台の前までやってきた。手を洗うわけでも鏡を見るわけでもない。ただそこで車椅子を停めて、居室の扉の方をじっと見つめている。ぼくがすぐ隣にいることさえ感知していない──それは、実に象徴的な老いた親の姿だった。

溢れるものを抑えながら母に何か話しかけたが、内容は覚えていない。母はゆっくりこちらを向いてぼくの顔を見つめた。そして、いつもの和かな笑顔を浮かべる──このあと母が何を口にするのか、ぼくにはわかる。


「どちらさまですか?」


こんなときは、冗談で返すといい。


「誰だろうね? ぼくが誰だか教えてよ」


それは、ぼくの叫びだった。

笑みを浮かべながら、再び母は前を向いた。横顔はどこか寂しそうで、瞳は潤んでいるようにみえた。


──すべて演技だったらいいのに──


帰宅後は、何もできなかった。最近は毎日練習しているギターさえも手に取る気がおきなかった。


──しばらく母には会わない方がいい──


そう思ったが、そのままにするとかえって次の機会が遠のいてしまう…そんな気がした。

梨がまだ手元にあってよかった。ささやかでも、母に会いに行くための理由になる。

今度は、梨をスムージーにして持っていくことにした。梨と豆乳、氷をミキサーにかけただけの状態で味見──とてもシンプルながら、梨の甘みと香り、舌触りを残したさわやかな味になった。

母が愛用していたカップも持参した。とても冷たそうにして最初は嫌がっていたけれど、ゆっくり一杯飲み干すと、おかわりまでしてくれた。下の義歯がないから、口に移したスムージーがよだれと一緒に垂れてきたりもした。けれど、そんな姿も今日はとても愛しく思えた。

介護者としてのぼくの想いは、いつだって一方通行。ひとりよがりの片想いだ。相手のためというより、自分が思い残さないために行動している…そんな自覚がこの6年、常にありながらも、それでも何かできることはないかと苦悶してしまう。母が今年の梨を味わえたところで何かが変わるわけでもない。そんなことは無論わかっている。しかしだからと言って、何もしないという選択は、いつもぼくにはできそうになかった。

たわいもないやりとりがいくつか続いたあと、母は、大ファンだったイタリア人指揮者=クラウディオ・アバドの本が部屋に飾ってあることに気づいた。手渡すとページをめくるたび目に入ってきた写真一枚一枚を手でさすりながら「アバドさん、アバドさん」と嬉しそうに声をかけていた。ぼくたち兄弟のこと、亡き夫のこと、そして近ごろでは自分のことさえも記憶から消し去ろうとしている母が、今でも愛した音楽家たちのことはよく憶えているのは幸運なことに思えた。

部屋ではパバロッティ歌唱による〈誰も寝てはならぬ〉が今日もかかっている。歌の終盤に差し掛かると、いつものように「vincero(勝つ)」というイタリア語の歌詩を一緒になって大きな声で歌いだす。


「あっちに連れてって」


また今日も、少し苛立った口調で母はリクエストしてきた。もうじき夕食の時間だからちょうどいい。みなさんが集う居間へ母を連れていくことにした。

周りに人がいると、母は自然にぼくのことを紹介してくれる。


「この子は次男。長男はもっと大きいの」


息子たちがいることもおぼろげになりつつあるはずなのに、状況が整うと反射的に対応できるのだろうか?


「暖かい手やなぁ」


別れ際には必ず握手をすることにしている。今日は久しぶりに母がそう応えてくれた。


「あなたがそうして育ててくれたんだよ」


そう伝えると、帰り際、このところそっぽを向いてしまうことが多い母が、今日はぼくが見えなくなるまで手を振って見送ってくれた。

表に出ると、空はもう秋の気配が漂っていた。ひとつ大きく息を吐いて、一仕事終えたあとのような気分で車に乗り込み、家路に就いた。車線が入り組んでいていつも混み合うある大きな交差点に差し掛かろうとしたとき、一台の車が進路に困った様子で徐行していたので道を譲った。信号で停車して何気なくナンバーに目をやると…そこにはまさか、母の誕生日と同じ数字が並んでいた。


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