主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと

【大阪に帰りたい】

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2018年9月12日

夕暮れ前、予定通り施設から連絡があった。今日行われた往診の結果と現在の母の様子の報告だった。

食欲は昨日よりも低下したらしい。発熱は少し治ってきているが、大きく状況は変わらず。抗生剤を金曜日まで試して状態が変わらなければ、提携している病院への受診となる方針が伝えられた。

受診するような容体であれば、恐らく入院となることが予想される。電話を切ったあと、入院までの状況とその後に迫られる選択のことについて想像しながら、母の具合をこの目で確かめるために施設へ向かった。

今日の母は、明らかに昨日よりも弱っている。発する言葉はもうほとんど聞き取れない。


「早よぅ・・・」


何度か繰り返される言葉は、最初に発する「早よう」という部分だけは確認できるが、そのあとがわからない。これまでの会話から連想すると、「早う起こして」と伝えたいのだと察したが、実際は違った。


「早よぅ帰りたい」


母が本心を発した瞬間だった。

目は開いているが力はなく、仰向けに横になったまま顔をわずかに左に傾けて、部屋の一点をずっと見つめている。恐らくぼくがそばにいることも判別できていない。時おり何かに気づいたように、真上に視線をあげて、そのあと、左右を見渡す。それを周期的に繰り返していた。


──何かが見えているのだろうか?──


「誰か見舞いに来てくれたの?」


そう声をかけると、ぼくの方には視線を向けないまま、母はゆっくりとうなづいた。


「お父さん? お母さん? お兄さんかな? それともお姉さん?」


すると母はまた、小さくうなづいた。


「帰りたい」


再び母は本心をぶつけてきた。どこか知らない場所へ旅立とうとしていることに恐れを感じているのかもしれない。真実がどうあれ、この状態ではその願いを叶えてあげることは到底できない。


──言葉が詰まる──


何か別のことを伝えようと咄嗟に感じたのだろう。ぼくの口から無意識にでたのは、母の育った大阪のある街の地名だった。


「清風荘に帰ろう」


色んな想い出を忘れ去っていく母だが、今でもその地名だけは憶えている。


「清風荘に帰りたい」


母はそう口にすると、また部屋の天井を見上げて、左右を確認した。そして再び、左手の壁の一点に視線を戻した。

呼吸も穏やかで顔の血色もいい。苦しそうな様子はなかったけれど、意識は朦朧とした様子だ。すると母は突然、右手を肘から曲げて直角に立て、ぼくの手を探すような素振りで手を差し出してきた。ぼくはその手を取り両手で掴んだ。母は自分の胸にぼくの手を引き寄せて、もう片方の手を力なげに添えた。


「大阪に帰りたい」


またぼくの目を見て、母はそう伝えてくる。


「大阪に行こうよ」
「清風荘に帰ろう」


母がこの身体から自由になったら、母を連れて、母の育った街にいく──そう決めた。

少し多く言葉を発したせいか、母の身体に僅かな熱が感じられた。おでこに手を当てると、母は真上を見上げたまま口元を緩め、少し恥ずかしそうにして大きく笑った。


──笑う──


それは、人が生まれて最初に得る感情のひとつだという。痛みも苦しみも哀しみも順に失って、最後に喜びさえも手放したとき、人はようやく、この世から旅立つ支度が整うのかもしれない。


──残された時間は、本当にあと僅かになっているのか?──


意識を彷徨わせる母を傍で見守る苦痛を知った夜だった。けれど、こうして離れた場所から独り無事を案じるのは、恐怖にも似た感覚に襲われる。


──気が狂いそうだ──


こんなときのために、母が授けてくれたことがある。


──音楽──


いつもそばにあるギターを抱きしめた。気持ちを手放したくて、感傷的な旋律をただひたすらに求めた。それはぼくの心の揺らぎを写し取ったかのような実に艶やかな音色で、母が過ごしたこの家の隅々まで深く鳴り響いた。


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