主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと

【理性を超えた想い】

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2018年9月11日

今の母に会うには、心身ともに100%の状態が求められる。少しでも弱っていると、ぼくが多大なるダメージを受けてしまう──そんな不安があって、高熱を出していると報告を受けてから未だに顔を出せずにいた。

しかしそうも言ってはいられない。


──ぼくたちの明日が約束されているなんて保証はないから──


居室に入ると、ベッドの背を起こした状態で母は座っていた。午後のデザートの時間だったようで、ケアワーカーの方が口に運んでくださるゼリーをゆっくり味わっていた。

高熱は治ったそうだが、解熱に体力を使い果たしたのか、母はひどく虚ろな表情をしていた。この6年の間に同様のケースで何度か見たことのある顔だった。入歯をしていないこともあり、頰はなお痩けた印象がする。まさに疲れ切っているのだろう。ぼくが話しかけてもまったく反応はなく、口に運ばれるゼリーをただただ頬張っていた。

それでもしばらくすると、僅かな笑みを浮かべるようになった。相変わらず無言でゼリーを食べ続けていたが、目元も少し潤み始めた。老人特有の現象だとは思ったが、家族にしかできない役割がまだあるのだと、そのとき改めて感じた。

だいぶながい時間をかけて小さなカップいっぱいのゼリーを食べ終わったあと、母はそのままベッドに横になった。ケアワーカーの方も退出され、ぼくはベッドサイドの椅子に腰掛け、母の手を握った。

うつらうつらとしたまま、母は目を瞑って静かに呼吸している。ときおりどこかが痛むのか、眉を歪めるような仕草を見せるが、それもすぐに収まる。

眠りに落ちそうになると、急に目を開いて、弱々しい声でぼくに伝えてくる。


「早よ起こして」


そう言って、母は爪を立てながらぼくの手をぎゅっと握り返した。2週間前、横浜の歯科医院に向かう車中でみせた大暴れの面影もない微かな抵抗──それでも、それは今の母が持てる最大限の力だった。


「起きたい」


まるで眠りにつく就くのを拒むようにして、母は何度も目を見開き、そうぼくに伝えてくる。握り返される手の力は、ますます弱まっていく。


「早よ起こして」
「起きたい」
「起きたい」
「起き・・・」


何度か繰り返されるうち、母の言葉は音となり、意味を持たなくなった。ぼくは視線を合わせ、うなづくようにそっと微笑みを返す。するとその笑顔が映ったのか、母も口元を僅かに緩ませる。そしてまた口を開く──。


「起こして」


そう何度も何度も訴えてくる母の姿は、「生への渇望」のようにぼくには見えた。


──生きたい──


母はそう伝えたいに違いない。

意識はだいぶ朦朧としているようだ。徐々に虚ろな眼差しになっていくが、それでもまだ「起きたい」と口にしようとする。


「もういいから」


そう伝えて、何とか母に休んでもらおうと、握った手の甲をゆっくりと優しく叩き続けた。


──子守唄のリズム──


みな記憶に埋め込まれているのだろう。母はぼくの手を握り返すことを止めた。そして音楽が鳴り止むかのようにそっと目を閉じて、ぼくより僅かに早いビートを打ちながら緩やかな呼吸を始めた。


「これを『やすらかな顔』というのだろうか?」


ぼくは母の手を握り子守唄のリズムを繰り返しながら、しばらく母を見つめていた。溢れてくるものを遮ることもないままに…。

母が特別養護老人ホームに移ってから、これほどながい時間、この部屋で母と過ごしたことはなかった。


──もしかしてこのまま──


そんなことさえ頭を過ぎった。

だいぶ薄暗くなってきて、施設内も夕食の支度で忙しくなり始めたころ、母はすっかり寝入ってしまった。ゆっくり手を離し、ぼくの体温で汗ばんだ母の手のひらを拭いた。母の身体にかけられていたのは、入所のときに持参した愛用のタオルケットだった。静かに立ち上がって、母に気づかれないようそっと両手をなかに収めた。

明日、毎週行われている定期健診が行われる。このままの状態が続くと、入院することになる可能性もありそうだ。


──無理な延命はしない──


母ともその意思確認はとれている。けれどその決定は、過去の出来事だ。理性を超えたところに棲む今の母にとって、果たしてそのかつての意思が現在も硬く揺るぎないものなのか?

母は今、何を伝えたいのか? 言葉や態度が表す通りとは思えないシーンがこのところ多くなった。それは単にぼくの受け止め方がそうなっているだけなのだけれど、母の本当の想いを知ることができたら…。

母に会うたび、そのことばかりが頭の中を渦巻いている。

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