主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと

【母の苛立ち】

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2018年8月9日

従兄弟から毎年贈られてくる千葉・八千代の梨を母にも食べてもらいたくて、今日は丁寧に皮を剥いて、しっかりと保冷した状態で持っていった。


──義歯はなくとも食べられる──


その見込みが見事に甘かったことを思い知らされた。

母は嬉しそうに梨をひと切れ手に取り、上歯の義歯を上手く使って、その半分を頬張った。しかし、下歯がないものだから、そこから先が上手く噛み切れないまま、口の中で梨を持て余していた。


「もういらん」


そう言い放って、唾液まみれの少し角が取れた梨を口から吐き出してぼくに手渡した。

近ごろの母に会うと、必ず色んな要求をされる。特にベッドに横たわっているときには、「起こして」「車椅子に座らせて」とせがんでくる。

座る姿勢が悪くてお尻の尾てい骨あたりに負荷がかかり、皮が剥けてしまう症状が以前入所していた介護老人保健施設にいたころから発生していた。座ることも姿勢を維持するリハビリになるのだが、何よりお尻への負担を軽減するため、午後には横になる時間を設けて下さっている。つまり、勝手に起き上がると、またお尻に痛みがでてしまう可能性が高まるわけだが、説明しても母は言うことを聞くはずがなかった。

最近は、なるべく好きなようにさせてあげようと思っている。母の要求はその場限り…いや、「その瞬間限り」と言った方がいいだろう。次の瞬間には前言を撤回して別の要求をしたりもするが、できる限り応えている。

車椅子の使い方も少し上達してきて、部屋のあちこちにつかまっては狭い空間のなかを自分で移動している。傍目には、それはいい出来事のように映るかもしれない。けれど、ぼくには、とてもそうは感じられない。


──伝えたいことがあるんや──


母はそう言いたいのかもしれない。それなのに、言葉も身体も思い通りに働かない…そんな苛立ちが母の心を支配しているように見えてしまう。

かつてのように明晰であれば、限られた面会の時間を大切にしようというある種の気配りができたはずだ。しかしいまの母に、もはやそれを期待することはできない。

きっと物心つく前の子供は、こんな調子で自由に振る舞うのだろう。周りの想いなどお構いなしに。


「たいくつ」


母は少し怒った口調で、一音づつ区切るように発音してぼくに告げると、窓辺のクローゼットに手をかけて車椅子の向きを変えた。そしてぼくに背中を向けて、ほんの少しだけ窓の方に近づいた。それはとてもゆっくりとした動きだった。まるで決別の覚悟ができたかのような静けさがそこにはあった。フローリングの床にタイヤの軋む音が、いまもまだ耳に残っている。


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