主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと。そして、それからのこと。

【旅立ちの支度】

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2018年8月5日

今年も千葉に暮らす親戚から、八千代の名産、梨が届いた。

母に食べさせたいと、よく冷やしてから剥いて、持っていく準備をしたけれど、昨日、義歯破損の報告が入ったことを思い出して、一旦様子を確認するまで見送ることにした。

梨を剥いていると、いつも母の言葉を思い出す。


「夏場は水気の多い梨が最高やな」


親戚が八千代に暮らすようになってから、もう何年になるのだろう。現地の生産農家から美味しい梨を毎年送ってくれる。これ以外にも、母は自分で梨を買ってきていたけれど、ぼくがこの家にひとりで暮らすようになった今では、これだけでも持て余すくらいになっている。


──母はぼくに、いくつ梨を剥いてくれたのだろう?──


ふと、そんなことを思い浮かべた。親が注いでくれる愛情は、無形有形問わず、無限だ。それを当たり前のこととして授けられたことの幸運を、西陽のあたるいつもの台所で今日もひとり噛み締めていた。

夕方、母に会いに行った。今日は久しぶりに居室ではなく居間にいた。テレビでは高校野球が放送されている。

そういえば、ぼくが3歳のころ、夏の甲子園に一度だけ連れられていったことがあった。バックネット裏の後方の階段を、母の背中を見ながら登っていった記憶がある。手には暑さで溶けかかったソフトクリームを持っていた。でも、階段を登りきったところで、暑さに耐えかねて落ちてしまった。と同時に、母もその暑さに慄いて、即座に階段を降り始めた。バックネット裏から僅かに見えた球児たちの勇姿…果たして、あれは本当に観た光景だったのか? 母の記憶が薄れゆく今では、それを証明してくれる人はもう誰もいない。

昨日、8月4日は父の命日だった。多忙を極めていて稀にしか顔を出せない兄のことはもちろん、近ごろはぼくのことさえぼんやりとしか思い出せなくなりつつある母だから、46年も前に先立った亡き父のことは忘れてしまったに違いないと思い、今日は、母のアルバムを持って行った。結婚当時の様子が記録された写真がずらりと並んでいる──。


出逢ったころの写真──。
平安神宮で行われた式の写真──。
白浜へ向かった新婚旅行の写真──。
父の家業を切り盛りする母の写真──。


どれもいい笑顔の母が写っている。

ぼくが誕生した1970年に入るまでは、全て白黒写真だ。今ではすっかり経年して、アルバムの台紙を含め、とてもいい風合いを醸し出している。

案じた通り、今日の母は父のことを思い出せないようだった。


「この人、誰ですか?」


説明しても、笑顔を見せるだけ。ページをめくるたび現れるスカした格好で写真に写る父の姿を見つけるたび、同じ質問を繰り返してくる。


──思い出したい気持ちの表れなのだろうか?──


不思議と、その父と暮らした京都の家で撮られた写真のことは憶えている様子だった。庭先や玄関で収められた自分の写真を見ては、「京都の家や」と指差しながら、ぼくにアピールしてくる。


──最後に残る記憶は、自分のこと──


この世の記憶などいつまでも携えたままでは、とてもあの世へは旅立てない。忘却は、終への恐れや現世への想いを薄れさせるために人に備えられた「優しさのシステム」──変わりゆく母を永らく見守りながら、ぼくはそう思うようになっていた。

こうして母は、大切な記憶をひとつひとつ手放して、今日もゆっくりと旅たつための支度を進めているに違いない。そしていつか、自分自身のことさえわからなくなっていくのだろう。


──生まれ落ちた瞬間と同じように──


そうなったときこそ、いよいよ旅立ちの時が近づいているサイン──もしも、その知らせが届く瞬間まで生きることができたら、それはとても幸運なことである。

ぼく自身、あれだけ熱中していた野球は、もう全く観なくなった。高校野球はもちろん、2000年代、母とよく観た阪神タイガース戦のテレビ中継もだ。今では結果さえも追わなくなってしまった。

ぼくの興味は、今や音楽だけになっているが、それもいつしか手放す日がくるのではないかと時おり不安になることもある。いつかその日を迎えても思い残すことのないように音楽と接していきたい。母がいつも口にする言葉のように──。


「人生、やり残しなし」


音楽に、やり残しなし──。

そう言い放てるように日々を送ろう。音楽を授けてくれた母への感謝を胸いっぱいに込めて。


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