主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと

【忘却の砦】

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2018年1月8日

 

いつ以来の雨だろう?── 。

 

見事な曇天の空を見上げながら、引出物に頂いた真新しい紫色の傘を差して、夕暮れ前、面会に向かった。

 

 

──スポーツ新聞全紙──

 

 

正確には5紙だが、星野仙一が一面に上がっていたものすべてを差し入れた。施設に着くと、母は午後の休憩の時間に入っていて、居室で横になって他の新聞を眺めながらくつろいでいた。

 

顔を合わせてまずは挨拶がわりに一言。

 

 

──「誰だかわかる?」──

 

 

もうこれは、ちょっとしたクイズだ。近頃では母と顔を合わせるときはそう訊ねるようにしているが、少し迷いながらも答えを呼び覚ますようにして思い出してくれる。

 

しかし今日の最初の回答はこうだった。

 

 

──「どなたですか?」──

 

 

「おぉ、いよいよ全部忘れたみたいだな」

 

そう切り返すと、母はいつものように顔をクシャクシャにして笑い始めた。

 

何がそんなに愉快だったのかわからないが、笑いのツボにはまったらしく、息つく間も忘れてしばらく笑い続けていた。

 

 

──「ほら、深呼吸、深呼吸」──

 

 

呼吸できなくなるのではないかと案じるほどだったのでそう指示をだしたものの、随分前から、意識して呼吸をしようとすると却って混乱する様子があったのを思い出した。

 

今日も見事に、「吸って、吸って」の状態になり、呼吸が覚束ない。

 

 

「ゆっくり落ち着いて、まずは息を吐かなくちゃ吸えないよ」

 

と改めて伝えると、ようやく落ち着きを取り戻し始めた

 

 

「息子を殺人者にするつもりかい?」

「あんたが来てくれて嬉しかっただけや」

「嘘つけ、思い出せなかったくせに」

「冗談で言うただけや」

 

 

ここまで会話が交わせれば、それだけで十分だった。

 

今日の母は、最近よく口にする

 

「ここに居ると時間がすぐに過ぎるからいい」

 

という話を何度も繰り返した。

 

それは、早くあの世からお迎えに来て欲しいと願う気持ちなのか、それともただ、退屈を訴えているのか…無論、ぼくにはわからない。きっとそれは、本人にもわからないのだろう。

 

正常と言われる認知力があったなら、過ぎ行く時間の狭間に深い思考の淵にはまり込んで、ぼくなら闇に沈んでしまうかもしれない。

 

 

──そうならないために備えられた忘却の砦──

 

 

日々、母がぼんやりとしていく様は、決して嘆くことじゃない。それは、苦悩や苦痛、無情、無念から少しずつ遠のいている証し。

 

 

 

──人はきっと、「無の境地」にたどり着くためにこの浮世に解き放たれたに違いない──

 

 

母をみまもって5年と少し。今ではそう思うようになっている。

 

 

「最近、あんたに横浜に連れて行ってもらったことをよく夢に見るんや」

 

 

突然、母がそう口にした。

 

 

「音楽を聴かせてくれるやろ」

「ネッスンドォ〜ルマァ〜」

「ヴィンチェロォ〜ヴィン、チェ〜ロォ〜」

 

 

バヴァロッティが歌うプッチーニ作曲〈誰も寝てはならぬ〉の冒頭と終わりを母は笑いながら歌い出した。

 

 

「Vinceroってのは、Vincereの未来形、勝つって意味や」

 

 

先月、横浜までの歯科受診へ向かう道中に、車のなかで歌を聴きながら母がそう言い出したことを思い出した。昔は、テレビを観ていても自分が知っている外国語が聴こえると、「これは〇〇語で〇〇って意味やな」とよく話してくれた。今も日本語を忘れないのと同じように、言語に関する記憶は定着しているらしい。

 

 

──勝つ──

 

 

今のぼくに必要なこと──。

 

 

もうそろそろ母の誕生日。昔熱心にやっていたNHKラジオ講座のテキストでも贈ろうかな。

 

 

短い時間だったけれど、今日はなんだか、2人してよく笑った。

 

どうかずっとこのまま、穏やかな時間が過ごせますように。

 

 

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