【最後の贈りもの】
201811月29日
「息子さん、何されてるんですか?」
「さっ・・きょ・・・」
「んっ?」
「さっ・きょ・く」
面会時間終了目前に施設へ着くと、前夜、母の担当だったという方からこんなエピソードを聞かせていただいた。
その日も、ぼくのアルバムをかけて下さっていたそうだ。それを聴きながら笑っていた母に訊ねて下さったのだという。母は今、度重なる義歯の破損であまりうまく発音できない。
「息子さんたちご兄弟の写真をみて、いつも笑っていらっしゃいます」
母は横たわりながらも、自分も右手の少し離れたところにある衣類棚の上に置かれた写真に頻繁に目線をやる。そのことには気づいていたが、母の視線の角度から察して、母が愛したイタリア人指揮者=クラウディオ・アバドの写真を眺めているのだとぼくは思っていた。
ぼくたち兄弟の名前は思い出せなくても、アバドやパヴァロッティなど、愛聴していた音楽家たちの名前と顔は今でも記憶に鮮明にあるらしい。50代を迎えた母は、遅くに産んだぼくの子育て役からもようやく解放されて、再び音楽を楽しみだした。時はバブル期──母は欧州まで演奏会を見に出掛けるほど熱心で、まさに自由を謳歌していた。
──中年期の黄金時代──
認知力が衰えても、最もいい時代の記憶は残ることが多いのだという。
──楽しかった日々の記憶──
それが母にとっては「音楽」なのだ。
今日の面会時も、母は頻繁に目線を写真の方にやった。
「アバドの写真を見てるんだね」
「あんたの写真を見てるんや」
──心を揺さぶられた──
母は確かに、いつもと同じ視線を衣装棚の方に送っていた。見間違いはなかった…。職員の方から伝え聞いた言葉は、本当だったのだ。
──息子さんたちの写真を見ている──
母の記憶のなかに棲むぼくは、今もまだ、作曲家であるらしい。今年の春、一緒に観に行った森山開次《サーカス》の再演のことも憶えてくれていた。
──母のなかで、ぼくは作曲家として生きている──
その事実が母のなかにあること──その「今」がまだ目の前にある現実に、感謝の想いが溢れてきた。
来年、《サーカス》と同じ新国立劇場で初演される森山開次《NINJA》の音楽を任されたことも伝えた。すると母は、手を叩いて喜びを表現してくれた。それから先は、どんな言葉を伝えても手を叩いて笑顔を贈ってくれるようになった──例えば、こんな感じで。
「まだ嫁には出逢えそうにないんだけどさ」
(パチパチパチパチ)
すっかり板についた、ぼくの飛び切りの苦笑を母に返した。
子供帰りしていてもいい。記憶がなくなっても構わない。この笑顔が、終のそのときまで永くながく続きますように──ぼくは今、それだけを願っている。
母の笑顔をみまみりながら、その笑顔の素晴らしさを伝えた。
「笑いを贈ることって素敵だな、と、今になって母であるあなたから学んでいるよ」
(パチパチパチパチパチパチ)
「笑顔は連鎖するんだ」
(パチパチパチパチパチパチ)
「言葉が通じなければ笑えばいいんだよね」
(パチパチパチパチパチパチパチパチ)
「ホントにいい笑顔だね」
(パチパチパチパチパチパチパチパチ)
こうして綴りながら、その時間のことを想い出すと、どういうわけか、自然と視界が潤んでしまう。あんなに素敵な笑顔を想い出しているというのに…。
──母は永遠──
目の前から消え去るとき、母はぼくのなかに移り棲む。そして目を瞑れば、たくさんの想い出が蘇ってくる。この笑顔も、ぼくの記憶に頼れば想いのままに呼び覚ますことが可能だ。
ぼくだけじゃない。母を知るすべての人たちのなかに、母は棲むことができる。身体といういつか果てる器から解き放たれて、母は遂に、真に自由な存在へと帰っていく──。
──みまもる──
母が再び原初へと戻るその様を、しっかりと見届けたい。
その時間こそが、母がぼくに授けようとしている最後の贈りものに違いない。
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