主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと。そして、それからのこと。

【どちら様ですか?】

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2018年4月19日

母が自宅内で事故を起こしてからちょうど5年半。その前年の秋口、突然膝に激痛が走って、偽痛風と診断されてから6年と少し──。

思えば、あの偽痛風のころから、母の老いは緩やかに進んでいたのだろう。

問診を受けても、自分の症状がうまく説明できなくなっていた。言葉はたくさん出てくるのだが、時系列に説明できず、その瞬間に思い出したことを矢継早に口にする──当然、医師にうまく伝わるはずもなく、代わりにぼくが説明していた。その様子に母は苛立ちを表すようになっていった。


──あの先生はわたしを馬鹿にしている──


自宅での暮らしでも、突然、関係のない話を始めて会話の腰を折ったりすることが増えていた。

核家族で育ったぼくは、そうした母の変化が何を意味するのか、当時、察することさえできなかった。

認知症を疑い、母を神経内科に連れていった。特別嫌がる様子もなく、すんなり診断を受けてくれた。

標準的な記憶テストと脳の萎縮度を知るための画像診断が行われた。はっきりとそうとは診断されなかったけれど、数値化された母の脳萎縮度は、想像以上に進行していた。

昼と夜の判別がつかない日が、一度だけあった。

あの日、恐らくぼくは、前夜から朝を超えて昼過ぎまで仕事をしていたのだろう。それから眠って薄暮のころに起き出し、母と顔を合わせると、母は着替えて帽子を被り、病院へのリハビリに出かける支度を済ませていた。

その出来事に驚かなかったのは、ぼくはいくつかの書籍を頼りに、認知症に関する知識を勉強し始めていたからだった。

そのころ得た知識のなかで最も印象に残っていることがある。


──そばで介護していた人のことから先に忘れていく──


それは、我が家の場合、「ぼく」の存在から忘れていく、という意味だった。


近頃の母は、ゆっくりとその傾向が見え始めている。


今夜もそうだった。

明日からの出張を前に、5分だけでも、と、顔を合わせにいった。


「どちら様ですか?」

「いよいよ忘れちゃったのかな」

「憶えてません」


そういって、母はこの一年ほど絶えず見せてくれる笑顔をぼくに投げかけてくる。


「明日から出張だから、ほら、これね」


チラシを見せた。


「あんたの名前が書いてある」

「そうだよ。ぼくが誰か思い出した?」

「わかりません」

「ほら、そんなときは写真に名前が入れてあるから」


そう伝えて、居室に置いてある兄とぼくの名前入りツーショット写真を指差すと…。


アバド


一緒に飾ってある、母が愛したイタリア人指揮者=故クラウディア・アバドの名前を口にした。


「(苦笑)」


これが、漫才なら最高に笑えるオチになるに違いない。


「わたしはク○ババアやから」


この二タ月ほど、母はよくそう口にするようになった。

ぼくが顔を出したときにも何度か見かけたが、仲良くしていただいている入居者の方と、「ク○ババア」「ク○ジジイ」と呼び合って、戯れている。職員の方は、悪い影響を互いに与えかねないと、2人を引き離すようにして下さっているらしいが、気づくとまた近づいて、同じことの繰り返しになるらしい。

お相手の方は、好きな娘に、ちょっかいをだしたい──そんな感覚なのかもしれない。

ぼくは、そんな2人の様子を断片的にしか知らないから、それでも構わないと思った。

でも、これから新しい環境に移る。改められるなら、今のうちに口を挟んでおくべき──そう思って、別案を提示してみた。


「ク○ク○って、最近の若い人がよく使う言葉なんだよね」

「それに大阪の精神からすると、アホ、という方がいいんじゃないかな?」

「アホって、関西弁では、愛情がこもった言葉だって言ってたじゃない」

「だから、言うなら、アホばあさんっていうのはどう?」


──「アホばあさん」──


母は、ぼくの話にうなづくように、そう口に出した。


「また新しいところでも、アホなことを言って、周りの人、スタッフの皆さんを笑わせてあげようね」


この介護老人保健施設に来てから、事あるごとににそう約束してきた。


──ここは母のステージ──


「せやなぁ」


そう応えてくれていたのは、いつのころまでだったろうか?

その返事が滞り始めたころ時期と時を同じくして、母の認知力は一気に衰え始めた。まるで、特別養護老人ホームへの入居がじきに決まることを予見していたかのように──。

そのとき、残された判断力を総動員して、母自身が異論を唱えてぼくを困らせたりしないように、見えない大きな力が働いたのかもしれない。


今夜も、西の空に浮かぶ月をひとり見つめていた。


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