主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと。そして、それからのこと。

【父の五十一回忌】

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2021年8月4日

今朝、浅い眠りの最中に、どいうわけか、素数について考えていた。「1」とそれ自体を約数に持つ数字のことである。目を瞑ったままおぼろげに数字を数え始め、50の台まで計算をした。


「51は、もしかして素数なのか?」


そう思って起きてから調べると、3×17=51であることから、そうでないことが判明した。そして、そのことに気づくまで、今日が父の五十一回忌であることを思い出せずにいた。

ぼくがまもなく生後8ヶ月を迎えようとしていたあの日から、ちょうど50年が過ぎた。

呼び覚まそうと思っても巡ってはこないその日の記憶──その日のぼくは、葬儀に奔走する母に代わって、誰かに預けられていたのだろう。真夏の京都はとにかく厳しい暑さだと言われているから、わざわざ乳飲児をその場へ連れて行くことはなかったはずだ。

生家の裏手にあった臨済宗大本山妙心寺にて行われた父の葬儀は、当時の家業の関係もあり、実に盛大に催されたと聞かされている。喪主として一切を仕切っていた母は、文字通り「気丈」に振舞っていたそうで、あまりに感情をあらわにしないその様子から、参列者から揶揄されもしたらしい。


──遺影にすがり啜り泣く未亡人──


映画で描かれるようば光景を誰もが期待していたに違いない。


──「それどころじゃなかった」──


母はそう教えてくれた。38歳で見舞われた家族の一大事に、泣いて叫んでも何も変わらないことを、母は誰よりも知っていたのだ。

そんな母も、涙を流さなかったわけではなかった。ぼくを身篭りながら、父の余命を聞かされたのである。溢れるものがないはずもない。そしてそのときの感情は、たとえ同じ経験をしたことがある相手であったとしても、決して母の気持ちに触れることはではない。


──わかって欲しい──


母は多くを語りながら物事を知っていくタイプではないとぼくには感じられるが、そんな欲求が満たされるはずはないと、本能的に知っていたのだと察している。

これまでも何度か綴ってきた我が家の史実を改めて思い返していると、あれから50年経った今日、ようやく気付かされたことがある。


──その宣告のとき、ぼくは母と共にいた──


母は独りではなかったのだ。

母の胎内で、その日その瞬間、宣告がなされた場の空気感を、母が抱いた感情を、ぼくは共有している。


それに気づけるようになるまで、50年を費やしたのか・・・。


1971年8月4日──高度経済成長の真っ只中、昭和の後半に差し掛かっていたあの日から50年後の今日、41歳で早世した父が存命であったら何を語るのか? あの日を見守り、そして今、特別養護老人ホームで暮らしながらも、その晩年に差し掛かり家族と顔を合わせることさえできない母は、この時代を生きて何を想うのか? 

呼び覚ますことさえできない父の声は、ぼくに届くはずもない。母の声は、意思確認が取れなくなった今、言葉として伝えられることもない。

コロナ禍となって以来、私的に誰とも顔を合わせることなく過ごしてきたぼくは、7月中に2度のワクチン接種を終えた。8月を迎えてぼくの身体が上手く反応してくれていれば、既に抗体を獲得できているころである。接種の予定が決まった頃は、「これで少しは自主制限を緩められるかもしれない」と淡い期待を抱いていたが、現在、他の変異株の感染が拡大する最中となり、最新データから判断すると、ぼくの期待は文字通り「淡いもの」となった。


──今年は墓前で手を合わせたい──


我が家の墓は、現在の居住地と同じ東京にある。それでもぼくは、今年もここで手を合わせている。ぼくには、何も確かなことがわいらない。だが、ここにいて誰にも会わないことが、他のどの可能性よりも安全であることだけは確かだ。例えばそれが「比較的」のレベルであっても、である。

去年の命日も、この仏壇にひとり手を合わせた。乳の流儀に倣い、花は用意せず、替わりに父が愛したというハイライトとアサヒビールを供えるのが常だった。しかし、今年はあえて、何も供えないことにした。


──ぼくが今日も無事でここにいること──


それが父にできる、一番の報告──それに優るものは、ない。


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