主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと。そして、それからのこと。

【母の裁縫箱に詰まったもの】

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2019年4月3日

ながらく続いた介護者としての日々のなかで、ひとつだけ決めていたことがある。


──裁縫だけはやらない──


もう昔のことすぎてその理由はあまり思い出せないが、あらゆることをこなし過ぎていたせいもあり、時間がかかる作業はしたくないと思ったのか、ひとつくらい誰かに任せてもいい仕事があるのではないかと感じていたのか…。何れにせよ、母の衣類で縫い付けなければいけないほどの状態に陥ったものはなかったし、自分の衣類のほつれや破れは、寸法直しのお店に何度かお世話なることで事足りていた。

しかしついに、その禁断の扉を開ける日がやってきた。

母の裁縫箱は、押入れの奥にしばらく隠しておいたままだった。認知力が衰えてきていた母は、足元がおぼつかなくなっていたにも関わらず、箸や歯ブラシ、ハサミなど先の尖ったものを手に持ちながら家の中を移動することが多くなっていた。ぼくの留守中、裁縫箱を持ち出して、特段今する必要もなさそうな針仕事をしていたときには、正に背筋が凍る思いだった。たとえ外野から「老人の自由を奪っている」と言われようとも、そうするほか、ぼくの安寧は得られそうになかった。


──この大きな裁ちバサミを母の手に触れさせるわけにはいかない──


そうしてまたひとつ、解のない問いを背負い続けることになった。


──その選択は、母とぼく、お互いのためになるのか?──


裁縫箱を開ける。昭和の時代を思わせる試供品がまず目に留まった──ソーイングセット──それをずっと保管しているのは、モノのない時代に育った昭和一桁生まれの母らしい一面だ。針山はすっかり埃を被っていたが、ぼくの子供の頃から変わることなくずっと同じものが使われている。確か、「自分の髪の毛を入れて作った」と教えてくれた気がする。髪の毛の油分が針を錆びさせないと言っていたような──裁縫箱ひとつとっても、色々な記憶が詰まっているものだと、我ながら感心していた。

針づかいは、小学生の頃の家庭科の時間以来、およそ36年ぶり。おぼつかない手付きに苦笑を浮かべながらも記憶を頼りに手を進めていると、不思議なことに、母の手さばきを思い出した。はっきりとは思い出せないが、どんな手の動きをしていたのかをイメージできたのだ。

すると、いきなり上達したような感覚になり、針を進めるスピードがあがった。調子に乗って思うより早くできたと浮かれながら仕上がりを確認しようとポケットの裏側を見ると、案の定、余計なところまで縫ってしまったことに気づいた。


「これは糸を切って一からやり直すのか?」


と天を仰いだが、そのときも母がしていたことが蘇ってきた。


──針から糸を抜けば間違ったところからやり直せる──


そう思い出したとき、手が止まった。


──それだけたくさんの時間を、ぼくは母の傍で過ごしてきたんだ──


そばにいるときは、そんなことさえ気づけないのに──。


──その気づきを得るために──


ぼくが裁縫を遠ざけていた理由は、そのためにあった──そう思うことにした。


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