主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと。そして、それからのこと。

【あの日の手の温もり──母と婚約者 ふたつの死(11)】

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2022年2月19日

3度目のワクチン接種──副反応で2日間、寝込むことになった。レポートされている通りの症状が次々と現れた。発熱は一時、39度を記録したが、不思議と熱による身体のだるさや辛さは感じなかった。呼吸も正常で苦しさもなかった。一番堪えたのは、悪寒。手の末端から冷え始め、スマートフォンを持つ手があまりの冷たさに耐えきれず、友人にメッセージを送るのも困難に思えた。


──こんな状態で助けを呼べるだろうか?──


もしものときを想像して、とても恐ろしくなった。


──時に痛みは役に立つ──


しかしこの副反応は、今のぼくには恩恵となった。少なくとも反応が出ているあいだに限っては、この、ふたつの死について考える余裕はなくなった。

だが、こうしてひとり悶絶していると、この上なく不安になる。


──そばにいてくれたら──


その叶わぬ願いが、ぼくにある出来事を思い出させた。

危篤の報を受け、現地へ入った初日の夜だったか、2度目の面会の機会が与えられた。状況の説明と、もうひとつの意味がその面会にはあった。


──お別れを伝える──


ぼくはあらゆるシーンを鮮明に記憶に残してしまう。その光景に囚われてしまわないかどうか、それが唯一の不安だった。

人工呼吸器が装着された彼女の表情を見つめると、少しまぶたが開いているように見受けられた。その僅かな隙間から、瞳の様子が伺えたような気がした。


──瞳孔が開いたままになっている──


そう感じられた。すべてぼくの想像の世界の出来事だったのかもしれない。けれど、その様が、ぼくに厳しい現実を明らかにした。


──彼女はもう、帰って来ない──


意識の回復は見込めない──彼女の表情が、そう無言で語っているように思えた。

生命維持が施されているとはいえ、少しでも身体を動かすと容体が急変しかねない状態と告げられるも、こうした僅かな時間が、限られたお別れを伝える場になる。細心の注意を払いながら、彼女の手に触れた。


「よく働いている手だ」


思わずそんな言葉が漏れた。その瞬間、同時に思い出されたことがあった。


──あの日の手の温もり──


一ト月前、母を荼毘に付した日のことだった。火葬場から母の遺骨を家に持ち帰ったあと、彼女を東京駅まで送っていく車中で、ぼくは心の支えとしてよく聴いている音楽をかけた。


Peter Gabriel ‘Wallflower’ New Blood Version (2011)


1982年のオリジナルからオーケストラ・バージョンに改変された一曲である。歌い上げる歌詩の世界は、そのときのぼくの心情とは異なるが、言葉の節々に、ぼくの悲しみに寄り添う想いが感じられる。


「何度も聴いたはずの曲が、違って聴こえてなんとも言えない気持ちになりました」


彼女も気に入ってくれていた曲だった。これは、その夜、彼女が無事に帰宅したあとに送られてきたメッセージの一部である。

ある赤信号で停車したとき、ストリングスが情感豊かに旋律を奏でる場面に差し掛かった。溢れくる感情を抑えようとしていたぼくに気づいたのか、次の瞬間、彼女の小さな手が、ぼくの首もとにそっと添えられた。


──言葉にならない──


彼女もきっと同じ気持ちだったのだろう。添えられた手の温もりがすべてを物語っていた。それだけで十分通じあえていた。あんなにも人の手の温もりを感じたことは、今までなかった。

今、そのときを振り返り思い出したことがある。


「大きくてあったかい手やなぁ」


生前の母を初めてショートステイに預けた日、車に乗ろうとする母の手を握りしめたときだった。母は少し照れ臭そうな口調でそう伝えてくれた。

あのとき、ICUのベッドに横たわる彼女は、ぼくの手の温もりを感じられただろうか? 医学の常識を超えて、ぼくが寄り添っていることがわかっただろうか?

彼女の手の温もりは、まさにあの日あの夜の温もりだった。生命維持のため身体を温められた状態ではあったが、紛れもない、彼女の温もりのままだった。


「これからどんな気持ちが湧いてきて、どんな風に感じるのか、、、帰りの車の中でふと思っていました」


この曲を聴き返すたび、ぼくがこの問いに自ら答え続けていくことだろう。

Wallflowerの花言葉を今、初めて調べてみた。戦慄している。


──愛の絆、逆境にも変わらない愛、逆境にも変わらぬ誠──


それは奇しくも、ぼくたちの今を映している言葉だった。


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