2018年12月20日
珍しく明け方から目覚めて活動的に動いた1日──。
主に早朝から大掃除をしていたのだが、今日のノルマを果たしてもまだ時間に余裕があった。そこで、いつもは夕方に向かう面会に、午後の早い時間から出掛けることにした。
運転中は、世界がセピア色に染まるサングラスをしている。枯葉散る澄んだ空気に満たされたこの季節は、視界の色合いも相まって、やけにセンチメンタルな気分に浸らせてくれる。
今日も母は、いつもと変わらず部屋で横になっていた。暖かい午後の陽射しが心地よい。ちょうど空気の入れ替えのタイミングだったのか、部屋は窓が開け放たれていて、レースのカーテンが風になびいてたゆたっていた。
──映画的な瞬間──
部屋を通り抜ける風がスライドドアのわずかな隙間から漏れて耳障りな物音を立てるため、着席する前にまず窓を閉めることにした。そして、母が使っている車椅子に腰掛けた。
このことろの母をみていると、不安や恐れ、苦痛や苛立ちなど、生きていくうえで背負ってしまうあらゆる厄介ごとから解き放たれているように映る。
──この境地に達するために──
人はもがきながらも生きる選択をするのかもしれない。
今日も母は和かに笑ってぼくを見つめる。時おり、衣装棚の上に置いた兄とぼくの写真に視線を送っては、また笑顔を浮かべる。
「笑ってる」
写真のなかのぼくの表情のことを言っているらしい。目の前にいるぼくの顔と見比べているようだが、どうやら別人に見えている様子だった。
何度も母には伝えているが、次の春、新国立劇場で初演される森山開次《NINJA》の音楽を担当することを改めて話した。すると最近の母らしく、精一杯の拍手をぼくに贈ってくれた。
「今、作曲を進めているよ」
「(拍手)」
「なかなか思うように進まないんだけどね」
「(拍手)」
「そこは拍手するところじゃないしょ(苦笑)」
「(拍手)」
そんなやりとりが続いた。
少し前のぼくなら、こんな母の様子をみて、胸が詰まる想いをしていたことだろう。もちろん、今でもそうした気持ちはあるけれど、コントロールできるようになってきている。
──母は元にいた場所に帰るんだ──
だから、それを祝福しないと、ね。
そして、こうして安寧の場で終のときを待ち侘びることができるなんて、どれほど幸運なことかしらない。
近ごろはとても寒いのに、今日、その瞬間だけはだいぶ暖かかった。西陽がたっぷり射し込むからだろうか? 西側のこの部屋に移ったのは正解だった。
その暖かさのせいか、母はうつらうつらとし始めた。少し眠たそうだった。今まで話をしていたかと思えば、急に口をつぐんで目を瞑る…まるで子供みたいに。
「じゃあ、仕事に戻るね」
「早よ帰り〜がんばれ!」
きっとこの瞬間だけ、母はチューニングを合わせてくれたに違いない。そうしていつだってぼくを励ましてくれていたのが母だった。
でも、がんばれなんて言われた記憶は、これまでない。
「あんたの好きにしぃや」
いつも母は、ぼくの迷いをみつめては、こう言って背中を押そうとしてくれた。それは、自分の意思で歩んできた母らしい励ましの言葉だった。今はもう、その言葉を聞くことはできないのだろうけれど。
いつも通り握手をして、席を立った。力強く手を引く母は、今日も変わりなかった。ドアの近くまできて振り返ると、母はもうすっかり寝入っていた。すると、静けさと穏やかさに満ち満ちた空気が母の居室を埋め尽くしていることに気づいた。午後の緩やかな光が、耳元でそっと語りかけるように、ぼくたち親子を包み込んでいた。
──光、あれ──
もしかしたら、ぼくはずっとこのときを待っていたのかもしれない。
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