主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと。そして、それからのこと。

【母たちのセカイ】

今の母にしか感じられない世界


(母と同じ未来がぼくに訪れたとき、どんなに虚しい気持ちになるだろう)

ぼくはこれまで、できないことが増えていく母をみつめては、そんなふうに一方的に嘆いていた。けれど、それはきっと違う──母には今の母にしか感じられない世界がある──今日、そう見方が変わった。


介護施設へ母を預けにいくたびに、介護を必要としている老人だけが同じ場所に集まっている様子に疑問を抱いていた。中にはもう会話もできないほどの方もいる。母がお世話になるので、ぼくも挨拶をと少し言葉を交わすこともあるが、会話にならない場合もいる。母よりもだいぶ症状が進んでいる方が利用されていることが多く、これまでの経験上、そうした中に母を置くと、母も周りにあわせて「ぼんやり」としてしまう。

(預けないで済むように…どうにかして、ぼくがそばで診てあげたい)

母を迎えにいった帰りの車のなかで、いつもそんなことを思い浮かべていた。


けれど、現実を越えることはとてつもなく難しい。ぼくのように独りで診ている場合はなおさらだ。事実、それを果たそうとするばかりに、ぼくの日常は崩壊してしまった(今、必死に建て直そうとしている)。


要介護者だけにしか見えない世界がきっとある


施設でよく見かける、あのテーブルを囲んだ談笑の図のなかには、きっと「母たちだけのセカイ」があるにちがいない。無論、今のぼくには、未だ、そこに観る図を喜ばしくも微笑ましくも感じられないのだけれど、それは「ぼくのセカイ」がなかなか周りに理解されないのと似たようなことなのだろう──今日、突然に「今の母のセカイ」があることを見つめ直した理由は、こんなところにあるのかもしれない。

 

2016年4月2日 夜 

クラウディオ・アバド指揮
ルツェルン祝祭管弦楽団による《マーラー交響曲第1番》のコンサート映像をみつめる母の傍にて