【二人一脚】母、入院100日記
春、夏と二つの季節が過ぎて、大好きな秋がやってきた。この間に起きた出来事を振り返りながらその月日を数えると、母が入院してから100日ほど経っていた──。
「介護者としての暮らしを守りながら、どこまで表現活動ができるのか?」
それを確かめるために二ヶ月限定で設けた横浜の仕事場だった(BankART AIR 2016参加)。途中、母にもスタジオの様子を見学に来てもらったりして、終盤まではとても順調だったが、オープンスタジオを目前に控えた5月中旬から母は体調を崩した。お願いしている往診医のサポートのもと在宅で療養していたが、一週間経過しても発熱が引かず、病院へ引き継いでもらうことになった。自宅で看ていた間、食事や身の回りの世話、トイレやおむつ交換など、ぼくは24時間体制でほとんど眠れない状態になっていた。入院が決まったとき、どこかで安心していた自分がいた。
この4年ほどの間に、本当にたくさんの時間を母と過ごしてきた。二人三脚、というよりも、二人一脚──そんな毎日──人生を締めくくりを迎えようとしているのか、母の心身には、様々な変調が見受けられるようになってきていた。
この夏に、母の心臓の状態を確認するための入院検査を予定していた。心臓弁膜症か冠動脈瘤、またはその両方の疑いがあり、その問題を取り除かないと、血圧の乱高下が抑えられない、という診断だった。症状によっては、心停止ということもある、と。もしも確実に、この症状があの世へ導いてくれるのなら、処置をしない、という選択もあったかもしれない。しかしいつものように「次の瞬間何が起こるのか? 誰も知り得ない」のである。無理な延命は本人も家族も望んではいない。けれど、目の前の問題に向けては、あらゆる可能性を考慮し対処していくしかないのだ。
夏に予定を組んでいたのは、ぼくの仕事の都合でもあった。海外出張が予定されていたため、それを終えたのちに──もし万が一のことがあっても対応できるように──万全の体制で臨むつもりだった。だが、まさに「誰も知り得ない」ように、母は倒れた。
入院の直接的な原因となったのは、引かない発熱。だが医師からは、解熱への処置を終えたところで、心臓の検査を行って、必要な処置を行う方向で検討してみてはどうかと助言いただいた。何度も入退院するのは、家族はもちろん、母本人にとっても負担になる。実に的確な助言だと考え、それに応じた。
ところが、母の発熱は、自宅で看ていたときと同様に、乱高下を繰り返していた。心臓の検査に移ろうにも、何よりまず熱が下がらないことには進めない。入院後から連日、熱源を特定すべくあらゆる検査をしていただいのだが、結局、原因が特定できないままだった。最終的に「不明熱」という、理由がわからない発熱症状ではないかとの判断が下された(シェーグレン症候群の疑いありとのこと)。
熱が下がらず検査にも進めない。さらには、弱っている心臓への負荷を考慮して、リハビリもできない(結局、その後、検査およびカテーテルによる心臓冠動脈へのステンシル挿入処置を受けることになったのだが、母は丸2ヶ月に渡って、ほとんど寝たきりだった)。
入院して一ト月半ほどが経過したころだったろうか。母の熱も比較的治まってきたところで、検査が行われた。結果は、案じたほどひどい状態ではなかった。心臓弁膜症がひどければ弁膜置換手術を、冠動脈瘤がカテーテル処置できないほどであったならば、冠動脈バイパス手術を必要と伝えられるところだったが、いずれも重度ではなかった。ただ、冠動脈瘤が2箇所あり、これが心臓に負荷がかかっている原因になっているであろうとのこと。この程度であればカテーテルによるステンシル挿入処置をすることで解消できるという。それは、対処できる処置の選択肢のなかでは、最も身体への負担が少ないものだった。「やり残しなし」を声高にうたう母は、とにかくいかなる治療もいらないと口にするのだが(よく考えずに)、このまま放置しても寝たきりに近づくだけだと説得し、処置を受けてもらうことになった。
しかし問題になったのは、そのスケジュール──ぼくの不在の間に処置せざるを得なくなった──前年、母は脳梗塞を起こしている。高齢ゆえ、体内の血管の至るところに動脈瘤ができている可能性も非常に高い。カテーテルを挿入したことによって、血管の内側にあるコブを剥がしてしまうこともありうる。そしてそれが脳内の血管で詰まれば、再び脳梗塞を発症することになる。そうした検査による合併症が起こる可能性についても説明を受けたが、なんと「2%」もあるらしい──50人に1人──かなり高い確率であると考えるのが妥当であろう。
ぼくが立ち会っていようと、何もすることはできない。でも、家族だからこそできることがある──たとえその場にいるだけでも──それが叶うことはなかった。
桃の夕暮れ。#空模様 #空 #sky #evening #東京 #tokyo #underconstruction #建設中 #pinksky #pink #桃色 #桃
2016年6月29日(水)午後──ぼくがバンコクへ向かう機上にいる時間、母は一人で処置を受けた──大丈夫。何事も独りで乗り越えてきた母だから。きっと、大丈夫。
1週間の出張期間中、2度に分けて心臓冠動脈瘤を拡張するためのステンシル挿入処置が行われた。2度目はぼくが帰国する翌日の予定だったが、1度目の処置後経過良好とのことで、ぼくが母と顔を合わせたときには、既に2箇所とも問題なく処置されていた。処置中の様子を記録した動画を見せていただいたが、ステンシル挿入後は、実に見事に、脈々と血液が脈打つようになっていた。見事だった。
母の顔色も、だいぶ良くなって元気そうだった。そして幸運なことに、心臓の問題を解決してから、熱がほとんど出なくなっているという。その理由については、担当医も「謎」と口にしていたが、因果関係がはっきりせずとも、熱にうなされずに済むのであればそれでいい。抗生剤も効かないような状態だったのだから。
2度も血管の中をカテーテルを通したせいもあって、処置後の母は内出血のあとだらけだった。
入院からちょうど2ヶ月が過ぎたころ、今度はいよいよ、自宅復帰に向けたリハビリを集中的に行うため、リハビリ病棟に移ることになった。4年前、自宅内で転落事故を起こして頭部を強打し、脳震盪を起こし救急で偶然運ばれた先は、リハビリに定評のある病院だった。これも、亡き父の加護によるものか? ここから最長3ヶ月に渡って、リハビリ、リハビリ、リハビリ、だ。
2016年9月15日(木)正午──いまぼくは、これをフィリピンの空港で書いている。ロンドンに向かう乗継ぎのための中継地だ。9月に入って、母のリハビリの回復度合いを確認するため、リハビリ担当者、ケアマネージャー、福祉用具レンタル会社の担当者立ち会いのもと、自宅内でどれだけ過ごせるかを確認する「家屋内調査」というものが行われた。リハビリ開始当初は、自宅復帰を望むのは現状では難しいと判断され、家屋内調査前も自宅復帰が敵わなかった場合の「念のため」の策として、老人保険福祉施設への入所手続きも並行して行われていた。ぼく自身も、家屋内調査とは、自宅復帰できるかどうかを確認するというよりも、家族の目に、自宅で過ごすことは難しそうだと自覚させるためのものに違いないと覚悟していた。事実、ひとつひとつ確認される自宅内での動作のなかで、「これは家族にとっても相当負担になる」と思われる日常動作をとてもひとりではできそうにないことがわかった──これで終わりか──そう感じていたのであるが、担当者の判断は逆だった──「まずは自宅に戻って試してみましょう」──その場に立ち会って下さったケアマネージャーとも相談しながら、ヘルパーさんの導入、週2度のデイケアサービス(リハビリ付のデイサービス)通い、そしてこれまで通り、週2度の訪問リハビリを継続しながら、様子をみていくことになった。
のちに、退院の日取りも決まった。予定通り、無事に自宅に戻れたら、母にとっては約5ヶ月ぶりの我が家となる。
母が不在の間、母がぼくに与えてくれた時間を有意義に過ごすために、専心していた──コンパクトで一人でも移動可能なモバイル・ギターサウンドシステムの構築──衣類など、荷物の内容も吟味して、できるだけ簡素化したパッキングを心がけた。そして今、旅の途にいる。
東京を発ってまずロンドンに入り、パリ、ベルリン、ミラノを3週間に渡って巡る。介護者として、表現者であることを同時に保てるかを試してきた日々をさらに拡張して、旅をしながら、そして表現をしながら、介護者としての使命を果たすことができるか? まずはその手始めとしてのテストケースが今回の旅である。
来年、再来年、そしてこれから先にも、こうした歩みを絶やさないようにしたい。とくに母が脳梗塞を起こしてからの1年半の間は、母のことにかかりきりだったから。自分の時間を大切にしたいと願う一方で、ひとりではどうにもならないことを思い知り、途方に暮れていた日々だった。そんな孤立状態からどうにか抜け出そうと必死だった今年。その挑戦の仕上げに、そしてこの挑戦の本当の意味での幕開けとして、この3週間に巡り合うであろう出来事をすべて感じ取ってきたい。
さて、長いと思っていた8時間の乗継ぎ待ちも、そろそろ搭乗時間が迫っている。どんな旅になるのだろうか? 後先考えず「今」を見つめたい。先入観や思い込み、常識というものを取り払いたい。そしてなにより、母とぼくと、ぼくのまわりにいるひとたちの安寧を祈ろう。こうして、ここで「今」を見つめていられるのは、たくさんの支えあってのことなのだから。
2016年9月15日──フィリピンにて。
以下、追記。
2016年9月16日──ロンドン Hounslowの宿にて。