主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと

2012年10月15日──始まりの日

素直になりたい。

ぼくはそれだけを願って生きてきた気がする。


母、浩江。
1933年(昭和8年)生まれ。山羊座

今から6年前──2009年3月14日、母の3つ歳上の姉がなくなった。享年78歳。それからだった。母が死に支度を始めたのは。

ぼくは当時、横浜市からの派遣で、台湾・台北市にある台北國際芸術村(Taipei Artist Village=TAV)に滞在していた。2週間後に迫った現地での個展に向けて滞在制作を進めていたため、やむなく現地に残り、葬儀には出席しないことにさせてもらった。その代わり、現地から叔母の成仏を祈った。葬儀が行われている時間に、台北駅にほど近い滞在先の屋上に独り佇み、台北でできた友人から贈ってもらった線香を焚いた。あまりに広くて殺風景な現地の制作スタジオの寂しさを充してくれたその線香は、独りで挑んだ初めての長期海外滞在の不安を和らげてくれた。父の没後、京都から東京へ移住することになった我が家は、その手続きやらで母は不在気味だった。まだ物心ついたばかりのぼくはきっと寂しかったのだろう。預けられていた叔母によく甘えていた──その叔母のために、異国から線香を──子供のころの様々な記憶が蘇ってきた。あの日は風が強かったことをよく憶えている。

10週間の滞在を終えて帰国してから、母に葬儀の様子などを訊いた。母の様子は特別変わりはなかったが、心の中で「自分の番が近付いている」と感じ始めたような様子が何となく伺えた。

それから母は、身の周りの整理をし始めた。それだけでなく、40年ほど続けてきた体操も止めた。週に二度、ジムに通って水泳も欠かさなかったのは、健康作りと呆け防止が目的だったのだけれど、それも面倒になったらしい。母曰く、計画的に身体を衰えさせようとしたようだ。そしてその企ては、3年後に見事成果を上げることになってしまった。

2012年10月15日──遂にぼくたちは「あの日」を迎えることになった。

前夜、20年暮らしてきた街で催されたアート・フェスティバルの打上げに参加していたぼくは、案の定、遅い時間の帰宅となった。加えて長年の昼夜逆転状態での生活習慣も相まって、いつも通り明け方に就寝し昼ごろまで眠っていた。

たしか時刻は、12時30分ごろだったと記憶している。

あの音をどう表現したらいいのだろう?

これまで聴いたことのない大きな物音が耳に突き刺さった。瞬時に起き上がり、居間のある二階へ駆け上がった。その間、わずか5秒ほど──音を生業とする身だけに、物音の大きさと質から、最悪の事態を想定し、心構えして「現場」を目撃した。

母が台所で倒れていた。

話しかけてみると、辛うじて意識がある様子だった。「救急車を呼ぶから動くな」と伝え電話を取りに一階へ戻り119番。救急要請を終えたところで母の元に戻ると、勝手に起き上がってソファーに腰掛けていた。会話ができたので事情を聞くと、ガスコンロの上に登っていて、そこから転落したらしい。そして左頭部を強打した、と──なぜ?

「換気扇のフィルターを交換しようとした」

母はその数年前から、脚が弱りだしていた。前年の夏には、左膝に突然の痛みがでて動けなくなり、救急で病院へ搬送したこともある。自分の身体の状況を十分知っていたはずなのに、どうしてそんな無謀なことをしたのか? 当時のぼくにはまったく理解できなかった──今になって振り返れば、あのとき既に脳の萎縮がだいぶ進んでいたのだろうと思う──。

救急隊が到着したのは、それから5分ほどあとだった。ぼくが代わって状況を説明していると、母の意識が混乱し始めた。

「なんでこの人たちはここにいるの?」
「自分はどうしてここに座っているの?」
「何があったの?」

記憶に障害が出始めた。典型的な脳震盪の症例だと知ったのは、その後の母の入院期間中のことだった。

3名の救急隊に担ぎ下ろされるような形で家をでた母は、そのまま最寄りの病院へ搬送された。MRIを撮影するまではまだ会話もできていたけれど、撮影後、診断を受けて入院が決定し病室へ移されたころには、意識はだいぶ朦朧としていて会話も覚束なくなっていた。頬を触っても感覚はない様子だし、ぼくが誰かわかるかと尋ねても応答はなかった。不安が過るのと同時に、自ずとむせ返り視界が滲み出した──このまま家には帰れないのか?

入院予定は、一週間。翌朝また様子をみて判断したいと伝えられ、ひとまずぼくは病院を後にした。

その日、午後に次なる展示会場となる東京スカイツリーの現場下見が組まれていた。さらに夜には、友人の作家の映像作品のための音楽打合せも予定されていた。スカイツリーの下見は、救急〜入院対応のため延期せざるを得なくなった。夜の打合せの案件では、先方が気遣って音楽提供自体を見合わせてもらって構わないと申し出てくださったのだけれど、ぼくからお願いして継続してもらった。この現実から逃げたくないと思ったのと、この現実から目を背けるために音楽のなかに逃げ込みたかったのと、裏腹な二つの気持ちが入り混じっていた。

病院を出て家に戻ったぼくは、入院の支度をしてまた病院へ引き返した。荷物を預け再びを病院をでたその足で今度は、この春から構えた横浜のスタジオに向かったはずだが…そこからの記憶があまりない。けれどこんなときは、過去のログが役に立つ。
http://twilog.org/kawasek/date-121015

これを読み返しても思い出せないことばかりだが、少なくともあの夜、これからどんなことが起こるのか? 想像さえしていなかったことだけは確かだった。

あの日から、間もなく3年が経とうとしている。

2015年9月26日未明 記

川瀬浩介