【無常であるがゆえにめぐりくる「今」という時】
2018年5月11日
やや挙動不審になりつつあった録音データ記録用ハードディスクを新調するために、いつもの「少し遠回り」なルートで秋葉原へ向かった。
それは、初心を忘れないようにするためでもある。
──ところが──
CBS/SONY時代から30余年見つめていたSony Misicの看板が、ない。どうやら譲渡されたようだ。
──世は無常なり──
レコーディングエンジニアに憧れていたのは、高校生のころ。でもそれは、「作曲をしたい」という真の望みを封じるための口実でもあった。
──大企業傘下のレコード会社に就職する──
そう言えば、親も納得するだろうし、人生設計だって、きっと滞りなく進んでいく──そんな、経験の足りない青い考えに満ちていた。
どこにいたって、そこが安住の地になり得るかどうかは、自分次第。そのうえ、そこが理想の場かどうかなんて、実際に過ごしてみなければわからない。自分の気持ちさえ、日々、移ろっていくというのに。
明日のことなんて、誰にもわからない。だから今日を全力で過ごす──この1年、その誓いが果たせなくなっていた。母のことを言い訳にして。
この二タ月の間に目にしてきた出来事が、ぼくをさらに前進させようとしてくれている。今日、目の当たりにした景色もまた、決意を揺るぎないものにするために忘れ得ない記憶になるだろう。
──残された時間がどれだけあるのか?──
いつその瞬間を迎えても悔いのない日々を──それだけを期して生きよう。
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【母が伝えようとしてくれている何かを】
2018年5月10日
母が入居している特別養護老人ホームへの道中は、とても緑ゆたかな道のりが続く。
──いつかこんな自然のなかに暮らす日がくるかもしれない──
今あることがすべてではない──可能性は無限にあるのだと自らに言い聞かせながら車を走らせた。
母がここへ導かれたことには、意味がある。その意味を見出していくのがぼくの務めならば、この道を行くたび、たくさんの気づきに触れるに違いない。
母が今も伝えようとしてくれている何かを、すべて受け止めたい。
──そのために、時間が残されている──
そう信じて。
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【ラジオのある生活】
2018年5月10日
先月までお世話になっていた介護老人保健施設入所中から、母はそれまでずっと聴いていたラジオを聴かなくなった。
自宅にいたころは、寝入るときには必ずラジオをそばにおいていた。ときには深夜番組も聴いていたらしい。
「岡村くんのオールナイトニッポン、きいてんねん」
ぼくと同い年、同じ独身の岡村隆史の番組ではある──80歳を超えたリスナーは、どれくらいいただろう?
「下ネタを話して盛り上がってた」
そんなことを昼間に嬉しそうに話してくれたこともあった。
それまで、母はその手のことを口にしなかったから珍しいことだと当時は思ったけれど、今になって振り返ると、認知機能の低下が徐々に始まっていたのかもしれない。
いずれにせよ、母はいつでも楽しそうだった。それが何よりだった。
今年、2月と3月に一時帰宅をした際にも、母はラジオを手にしなかった。もう興味がなくなってしまったのだろうか?
特別養護老人ホームへ移ってからは、個室での生活になった。周りに気兼ねなく過ごせるはずだから、もう一度、ラジオを手渡してみることにした。
操作は辛うじて憶えているようだったが、微妙な選局は難しい様子だった。
しばらく試して使ってもらおうと、居室の枕の横に置いてみることにした。スタッフの方には、騒音などの問題が発生したら、遠慮なく手の届かない場所に保管していただいて構わない旨、お伝えした。
母はぼくが顔をだすと嬉しそうに手を挙げて迎えてくれるが、会話はなかなか弾まない。子供のころのように「今日、こんなことがあったよ」と、あれこれ話題を振ってみても、反応はあまりない。健常であったとしても、離れて暮らすと会話は詰まるものだから、こうした時間を見つめることも「自然」と言えるのだろう。
それでも、《サーカス》の上演の話をすると、力強く応えてくれた。
「なんとしても行きます」
施設側にも相談して、準備を進めている。当日、無事に送り届けるまで安心できないけれど、できる対策は怠らないようにしたい。これまで介護者として積み上げてきた経験を、すべて投じよう。
帰り際、ラジオを持った手元の写真を撮りたくて、必死に選局している母に声をかけた。
「ラジオを見せてよ」
すると、母はこんなポーズを返してくれた。
「なんだ? アイドルか?」
子供のころバレエを習っていた母が、ポーズをとって写っていた写真のことを思い出した。
お父さん、お母さんに、こんな風に笑顔を見せて、みなを和ませていたのだろう。
いつかぼくも我を脱ぎ捨てて、今の母のような和かな笑顔を放ちたい。
たとえそのとき、自分が誰であるかわからなくなっていても。
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【咀嚼欲を満たすサラダ】
2018年5月9日
8:30AM──昼夜逆転仕事人の使命を果たして、朝食を。
下敷きになったキャベツの千切りがまったくみえない、山盛りサラダと白湯。
食後にコーヒーを淹れたいところだが、安眠の妨げになるゆえ、パス。風呂に入って溢れ出したドーパミンの活動を鎮めたい。副交感神経の発動を待ちわびよう。
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【母の献立にはなかった品品】
2018年5月8日
白菜のサラダ──。
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【希望に満ちた場所へ】
2018年5月3日
森山開次《サーカス》──。
まもなく開幕する3年ぶりの再演のための稽古が進んでいる。
通し稽古を2度拝見して、2度とも涙が溢れてきた。
──どんな記憶を参照しているわけでもない──
大切だった過去の出来事を思い返すことなど、稽古中は一切感じなかった。
ただひとつだけ言葉としてこころに現れたことがあった。
──ぼくたちは、劇場のなかで時間旅行をしているのかもしれない──
そんなことを思い浮かべながら、ダンサーたちの舞を見つめていた。
「今度も是非お母さんと」
稽古のあと、我らが看板から、そんな言葉をいただいた。
「子供がえりが激しいので難しそうです」
ぼくが付き添えるから、上演に支障がでるようなら退出することもできる。ただ、ご来場いただくお客様のことを思うと、未だ迷いがあるのが正直な気持ちだ。
劇場は、全国から、いや、もしかしたら海外からも、「今日」という日の公演を楽しみに足を運んで下さる方々いらっしゃる場。出演者、関係者全員、ベストなパフォーマンスを届けたいと願って今日まで取り組んできたことは言うまでもない。もちろん、ぼくもその一員だ。
──そこに母が水を差すことになったら──
これまで、たくさんの子供たちに観てもらえる仕事を手がけてきた。その経験からすると、子供たちの方が静かに、真剣に観ている印象がある。しかし、近ごろの母の振舞いを振り返ると、心配は絶えない。
今日、迷いながらも、母に改めてチラシを渡した。
去年の秋、再演が発表になったころ、母はまだ自分の意識をはっきりと伝えられたが、特にこの一ト月ほどの間に、記憶も意思表示も曖昧になることが増え始めた──お陰で再演のことも、話題にするたび、初めてきいたかのように喜んでくれる。
それでも、3年前に一緒に観た《サーカス》のことは、まだ憶えているようだった。
「あれはよかった」
作品のことを話題にすると、今も必ずそう応えてくれる。
──母はもう一度チラシをみて、何というだろう?──
特別養護老人ホームに到着して、受付で面会用紙を記入していると、担当の相談員の方が偶然にも対応してくださった。
──流れのなかにいる──
迷わず、観覧のことを相談した。
「我々にお手伝いできることがあれば何でも仰ってください」
暖かい言葉だった。
話をすれば、母は当然「行きたい」という。ぼくも、叶うならまた一緒に観たい──想定できる状況をシミュレーションして、上演の妨げにならないよう対策をしよう。幸い、劇場の車椅子席は、退席するのも容易な場所に設けられている。
──言い訳はしない──
そう決めたばかりなのだから。ならば、それを見届けてもらおう。
母は何も語らずに、ぼくの決心を試そうとしているのかもしれない。
再び2人で、あの希望に満ちた場所へ──。
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【母への償いのために】
2018年5月1日
コーヒー生活を始めたのは、2016年初頭からだった。母との暮らしに息が詰まってしまい、何か気を紛らせるものを、と、コーヒーを選んだのは、必然だったのかもしれない。
──香りを聞く──
最初は香を嗜むように、その匂いだけ嗅いで飲まずにいたのだが(もともとコーヒーは好んでは飲まなかった)、その年のうちに自宅でエスプレッソまで淹れるようになっていた。直火式メーカーを選んだのは、極力、依存するエネルギーや物事を減らしたいと考えていたからだった。
コーヒーを淹れ始めたころの空気感を思い返しながら、今夜、ミラノで教わったイタリア流エスプレッソを久々に味わっていた。一気に飲み干し、カップの底に残った砂糖をスプーンですくい口に運んだ。
この味わい方を教わったあの頃、母は、敗血症と心臓冠動脈へのカテーテル挿入処置を経て長期入院をしていた。なんとか自宅復帰を果たそうと、1日3回のリハビリに励んでくれていた。その甲斐あって一度は希望が叶ったけれど、あれから2年と経たずに特別養護老人ホームへ移ることになるだなんて…。
──本当にぼくは、できるすべてをやり尽くしたのか?──
目指す丁寧な暮らしを取り戻しつつあるここ最近、この1年余りの依存的傾向について振り返っている。
人に
食に
酒に
場に
物に
親に
兄に
家族に
街に
友に
仕組みに
社会に
仕事に
環境に
そして…
美に──。
音楽に──。
それは、当たり前のことかもしれない。一切の頼りもなくひとりで立っている人など、この地上にはいない。
けれどぼくは、未だ言葉にし得ない違和感のなかに、ずっと佇んでいた。
その違和感とは、いわゆるこれだ。
──自己嫌悪──
ひとつひとつ、携えたものを手放していく母を見つめてきて、己の強欲さに嫌気がさした。
未だ50歳手前の身──欲深き時代の真っ只中にいることが「普通」と言っても過言ではない。
しかし、この1年のあり様は、一体何事だ?
今はそう、自戒している。
過ちは、正していく他ない。
──まだ間に合う──
こうしてコーヒーを淹れながら、まだ「今」という瞬間がある幸運を嚙みしめている。
──ひとつひとつ、手放していく──
望まぬままにそう強いられた母へ、ぼくからの償いの想いを込めて。
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