主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと。そして、それからのこと。

【ご縁が繋いでくれた仏壇の閉眼供養(1)】

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2022年11月24日

母と婚約者のふたつの死から半年ほど経ったころ、この状況を一変させるためには、ここから新しい土地へ移る必要があると感じ、大小あらゆる準備を進めてきた。しかし、想像をはるかに上回る悲嘆感情に支配され続けたこともあり、その準備は、かなりゆっくりなペースでしか進められなかった。

それでも、歩みを止めまいと、半ば無理をしながら進めてきた準備のなかでも、とても重要な機会を、この晩秋に執り行った。

閉眼供養──仏壇に込められたご先祖様の魂を解放する儀式である。

とは言っても、わが家は決して、熱心な信徒とは言えない。そもそも、母は自らが入る墓を自分で用意していたにもかかわらず、葬儀を望まなかった。それは、本来の仏教徒のあり方を明らかに逸してしまっている。

それゆえに、母の遺骨は海洋葬で海に散骨することにしたのだ。本人の意思に則っていたかは知る由もないが、母が墓を用意した三十年以上前に、海洋葬は行われていなかったはずだ。もし当時、海洋葬が一般的になっていたとしたら、母はきっと、その葬送を望んだに違いない。

母が愛したイタリアが産んだ名監督=フェデリコ・フェリーニの作品《そして船は行く》では、オペラ歌手の海洋葬のシーンが描かれている。母とその映画を観たという兄の話では、母は、その海洋葬のシーンにいたく感激していたというのだ。


──バレリーナかソプラノ歌手になりたかった──


昭和一桁生まれの母は、時代が許せば、別の人生を歩んでいたのかもしれない。

夢みた人生と現実は異なっていたものの、母は自分の理想を叶えたと、常々口にしていた。


──人生想い残し、なし──


それが晩年の母の口癖だった。


──男の子を二人産んで、それぞれに最高の教育を与える──


ぼくの誕生と入れ替わるようにしてこの世を去った父の没後、当時暮らしていた京都から東京へ移住することを決めた理由のひとつが、その〈教育〉だった。

あいにく、ぼくはその面では母の期待には応えられなかったが、ダンスのための音楽を奏でる作曲家としてのキャリアが拓かれたことを思えば、母が望んだ〈舞踊と音楽〉という夢を共にみることができたと言える。幼いころのぼくは、母から音楽の手ほどきを時折り受けながらも、正式な音楽教育を授けられることだけは一貫して拒絶してきたこともあり、きっと母は、ぼくのこの「今」に驚きと同時に、歓びを覚えていたに違いない。

晩年、介護施設で暮らした母は、あまり会話ができなくなってきても、ぼくが面会に行くと、職員の方に、笑みをこぼしながら自慢げに話していた。


「この子は、作曲をやってるの」


それはもう、すっかりカタコトになった口調だった。

好きなことを仕事にする苦悩を数えきれないほど味わいながら、こうして今もかろうじて踏みとどまっているのは、あの母のカタコトの言葉が、ぼくの耳のなかでずっとこだましているからなのだと感じている。

そんな母と過ごした50年という月日を、絶えず見守ってくれた仏壇を、遂に閉じる日がきた。わが家には〈今のところ〉、後取りがいない。ひとまわり年の離れた兄も、そして50歳を過ぎたぼく自身も、いつ何時、この身に何が降りかかるかわからない。母は、自身も若い頃に夫との死別を経験し、ひとり親として生きる選択をしたこともあり、何事も先回りして準備する用意周到な気質だった。そんな母の生き方にぼくは、ただただ感服するばかりだった。

今どき、ネットを引けばどんなサービスでも見つけられる。縁もゆかりもない僧侶を招いて、形ばかりのお教をあげていただくこともできる。しかし、それは何か違う気がしてならなかった。その違和感が、閉眼供養を行う決め手を失っていた理由でもあった。それゆえに、つい最近までは、母の三回忌までに行いたいという、消極的な姿勢を自ら感じていて、そのあり様に、自己嫌悪さえ覚えていた。

しかし、ぼくたちの〈ご縁〉は、突然にある繋がりを明らめ始めた。

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