【亡き婚約者の百箇日──母と婚約者 ふたつの死(23)】
2022年4月19日
納骨式から戻って以来、ほとんど寝込んでいた1週間だった。
帰京直後にぼくのことを案じて集ってくれた友人の輪のなかで過ごした時間もあった。しかし、安心な時間があればあるほど、その輪のなかに彼女がいないことが強調されてしまう──納骨式のために過ごした時間もそうだった──そして、ひとりの時間が再び始まった途端、ぬぐいようのない孤独に襲われた。目まぐるしく移ろう天気のように、短い周期で感情の波が変化していく──。
──これが悲嘆というものなのだな──
寝込んでいる間に、彼女の百箇日が近づいていることを思い出し、またもや記念日反応がで始めたのかもしれない。もしくは、こうして気持ちを綴ること自体が、実は相当な苦しみを自ら浴びせてしまっている可能性もある。気持ちを吐露するということは、少なからず、誰かを傷つけることにもなる。その誰かの輪に、ぼく自身をも含んでしまっているとしたら、これは全く救われない営みだ。事実、こうして文字を綴ると、身体の強張りを感じることが多い。
──何かを恐れているのか?──
科学的な視点で捉えると、こうした症状は自律神経が失調していることに由来するものだと考えている。悲嘆により自律神経が失調すると、心が反応して言葉を吐かせる──母の介護者として過ごした時代は、毎日のように言葉が溢れてきた。母の晩年に彼女と出逢い、離れて暮らしながらも穏やかで愉快な毎日を過ごすようになってからは、気持ちを言葉に変える必要が少なくなっていた。自ずと自律神経も整えられていたと考えられる。
──その調和が突然絶たれた──
今のぼくは、制御不能になった飛行機のパイロットだ。なんとか体勢を立て直そうと必死にもがいている。そうして抗う様子が、言葉に置き換えられているに違いない。
書きながら、いつもほとんど号泣している。涙は感情を整えるためにも有用だと聞く。いつか言葉さえも尽きるころ、溢れる涙も静まり、心は再び安定軌道に還る──いまはただ、そう希うばかりである。
彼女の百箇日を悼むために、その前夜となる99日目の夜に、ある街へ出かけた。彼女と東京で初めてデートした店に出かけて献盃を捧げ、節目としての儀式をひとり執り行い、安定軌道へ還るきっかけを掴みたかったからだ。
店のカウンターで偶然にも隣り合わせになった男性と自然に会話が始まると、偶然の巡り合わせに驚嘆した。聞けばその方のご親族も、大寒のころ、彼女と同じ病気で急逝されたと告げられたのである。そこから、同じ体験をしたもの同士しか分かち合えない気持ちを交わし合った。
その方は、仕事帰りにご家族から頼まれた買いものを済ませるために、この街に寄り道したのだという。今どきネットを頼ればなんでも手に入る世の中であることを考えると、その買いものを引き受ける必要もなかったのかもしれない。しかし強めの雨が降り注ぐ夜、ご家族のためを思う気持ちが、求める品が手に入りそうな街まで脚を向けさせたのだ。
そしてぼくは、思いもよらぬ巡り合わせに恵まれた。
話題は悲しみに暮れるばかりではなかった。聴いてきた音楽や見て育ったアニメの話題までにおよび、気がつくと、カウンターに揃った男性客全員が、同じ話題でひとつの輪になっていた。
──彼女が授けてくれた時間──
会話の狭間のふとした瞬間に、そう感じた。
ようやく最近になってからだ。愉快なことがあったり、穏やかな気持ちにさせてくれることがあるとき、それから、落としものや忘れものに気づかせてくれたり、ぼくの身の安全を守ってくれるような出来事があると、彼女の存在をそばに感じられるようになってきている。綺麗な景色に遭遇したり、道端に咲く小さな花に気づいたり、春真っ只中の都会の街なかで草花の甘い香りに気づいたりするときにも、必ず彼女のことが思い浮かぶ。美味しいものをいただくときには、「このひと口は彼女の分」──そう思うようにしている。
彼女は、ときに昆虫に姿を変えて現れることもある。納骨式に向かう前夜は小さなてんとう虫が現れた。つい先日は、悲しみに暮れながら散歩をして帰宅すると、家の前の植え込みに咲いた花に蝶がとまっていた。雨上がりの夕暮れに、湿った羽を休めるように、そっと静かに……。
──絶望のなかに棲む小さな希望──
そのサインにまだ気づけるぼくは、やはり幸運なのだ。もがき苦しみながらも再び安定軌道へ還る可能性を見逃さずにいられるのだから。
#主夫ロマンティック #介護 #介護者 #介護独身 #シーズン10 #kawaseromantic #母 #看取り #川瀬浩介 #元介護者 #死別 #遺族 #寡夫 #寡夫ロマンティック #シーズン1