主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと

【介護者生活丸9年──10年目の介護記念日】

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2021年10月15日

9年前のあの昼間の出来事を懐かしむことができる日は、まだ来ないらしい。それまで聴いたことのないような大きな物音が鳴り響いた「あの瞬間」のことをだ。

そのときぼくは、眠っていた。それでも、音に携わる仕事をしてきただけに、その物音の発生源が「モノ」ではなく、間違いなく「ヒト」であると、まるでその瞬間を目撃していたかのように悟った。

母が自宅で転落事故を起こしてから、今日でちょうど9年が経った。あれから一段ずつ階段を下るようにして、母の老いは進んでいった。

この11月で、母が特別養護老人ホームに入居してから、丸3年になる。この間、パンデミックの影響で半分以上の時間、互いに顔を合わせることができなかった。


──母が老いていく姿をすべて見届けたい──


ぼくの願いは思わぬ障害で叶えられなくなったが、もし、すべてのシーンを目撃していたとしたら、ぼくは自己崩壊してしまっていたかもしれない。


──ぼくを守るためために必要だった──


9月末に、1年8ヶ月ぶりに母と再会を果たしたあと、ふとそんなことを思った。

パンデミックの最中に果たし得なかったことが、もうひとつあった。


──父の墓前に参ること──


この10月1日、東京では緊急事態宣言が解除された。感染拡大がおさまりつつあるこのときこそ、記念日に墓参りするチャンスだった。

花に関心がなかった父ゆえ、花を供える必要はない──母から伝えられている通り、今年も同じようにした。

墓へ向かう道中、父の愛飲した品にどれを選ぼうかと迷っていた。タバコはいつも通りのハイライトでいい。父が当時、毎日のように味わっていたというビールは、アサヒ・ラガー。今では手に入らない品ゆえ、同じメーカーでスーパードライにするか、ぼくが好きなクラフトビールにすることがこれまでんの慣例だった。

午後の遅めの時間、少しでも利用者の少ない列車に乗ろうと各駅停車を選んだ。乗降客の出入りがある出口付近は避け、かつ窓がすでに開けられ換気が万全と思われる座席に身を沈めた。そして今日もかつてと同じように、銘柄を考えていたそのときである。まさかの出来事が起こった。


──親族以外の人物のことが心に浮かんだ──


まさか君のことを思い出すだなんて・・・あれから日を追うごとに、その出来事が現実味を帯び始めているのだと、改めて思い知らされた瞬間だった。

父と同様、ビールを愛した君だから、今日は、君好みの銘柄を贈るよ。


──よなよなエール──


今では缶入りのクラフトビールの定番とも言えるほどの人気の品だ。

墓の最寄駅には、子供のころ、母に連れられてよく通った老舗スーパーマーケットがある。そんな懐かしい場所で、今はひとり、2年ぶりにビールを買った。

墓がある地域は、都心部にしては珍しい寺町で、大通りに囲まれた一角だというのに、寺街独特の満たされているようでどこか物哀しさを覚える静けさが漂っている。

普通に暮らしているだけで渦に飲み込まれて取り乱されてしまうような日常から束の間でも遠のき、再び心をチューニングし直すためには、こうしたひと気のない場所で、そっと静けさのなかに潜む時間がぼくには欠かせない。

寺の本堂脇にある井戸水をくんで墓前に立つころ、すっかり買い忘れた品があることを思い出した。


──線香──


墓参りには、線香専用の風防付きのライターを持参している。しかも今日は念のために、より火力のあるジッポーライターまで用意してきたにも関わらず、いずれも役立てられない。

しかし瞬時に頭を切り替えた。


──今日は父に、焔を灯そう──


タバコも愛した父は、きっといいライターを持ち歩いていたに違いない。今日は父の咥えタバコに火を点すようなつもりで、焔を供えることにした。

墓前を整えて、静かに手を合わせる──父と君が同じあの世に棲むことができているかはわからない。けれどもし、あの世で巡り会うことができたとしたら、世代を超えて愛したビールで盃を酌み交わせますように──そう願った。

次いで、家族に対する礼を──。ゆっくりと老いて行きながらも、今も現世での使命を果たさんと、無常の毎日を生きる母を見守って下さるお礼、そして、還暦を越えてなお社会の役に立つ勤めを果たしている兄夫婦の無事と、今にも崩れ落ちそうになりながらもぼくが健在であることを報告して、墓を後にした。

夕暮れ時の空を見上げると、真昼の月の名残が見えた。出掛けに家の近所で見上げた空に浮かんでいたあの月だ。

思えばこれまでも、苦しいとき、よく真昼の月を見上げていた気がする。


──母の終を見届けること──


それもまた、ぼくが母のもとに生を授かった使命のひとつであるはずだから。父と入れ替わるようにぼくが誕生したことが、その証なのだろう。


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