主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと

【月のなみだ──母へ報告】

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2018年4月18日

夜、夕食を摂り終えたところで、急に不安に駆られた。

このところ加速している展開を想像していると、今夜、母に、そしてぼくに何が起きても不思議じゃない──後片付けを切り上げ、仕上がっている洗濯物をバッグに詰めて、足速に母の面会に向かった。

夕食、そしてその後の歯磨き、トイレ介助などをすべて終えて、母を含め30名ほどが暮らすユニットは静けさに満たされていた。わずか数名の利用者の方が、大広間に残りテレビを眺めている。職員の皆さんは、日報を記しているのか、パソコンに向かいながら仕事をされていたが、もっとも作業が集中するであろう時間帯を過ぎて少しリラックスされている様子で、表情もどこか緩やかだった。

ぼくは、慣れた身のこなしでスツールを借り、片手にぶら下げながら母の居室へ向かった──腰を据えて、話したいことがある。


──今夜、特別養護老人ホームへ移ることを伝えよう──


伝えないままにすることは、ぼくにはできそうになかった。母が仲良くしていただいている入居者の方もいらっしゃるし、お世話になった職員の皆さんに、お別れの挨拶をしておきたいと思うかもしれないから。

仲良くしていただいている入居者の方にお伝えするかどうかは、まだ迷っている。伝えることは簡単だが、相手がどう受け取るかまでは予想はできても、コントロールできない。

ぼくのひと言が混乱や苦痛を与えてしまうことも考えられる。でも、伝えぬままここを去ったら、お別れをしたかった、と悔やまれるかもしれない。


──今夜はまず、母へ──


詳しいことは抜きにして、「別の場所へ移る」とだけ伝えた。


ベッドに横になった母は、真上を向き直して、すぐさま顔の前で両手を合わせた。


「わたしはあんたが頼りで生きている。ありがとう」


母はしばらく拝むように手をさすりながら、「頼りにしている」と繰り返した。


──ぼくとは目を合わさず、真上を向いたままで──


まるで、天にいる誰かに向けて伝えているようだった。


「お別れを伝えたい方がいたら、今のうちにね」

「おらん」


ぼくの気遣いは、ほとんどが空回りだ。今夜もまた実に味気ないやり取りだったが、今はこれくらいの方が良かった。

これでなにもかも安心、というわけではない。母の体調や感情は、これからも日々、刻々と移ろっていく。

それは、ぼく自身も同様だ。

母がこの家に不在となってから15ヶ月。少しは気が静まるかと思ったけれど、そんなことは一切なかったのだと、今夜、改めて感じた。直接介助をする機会がほとんどなくなった分、身体的な疲労を得ないことと引き換えに、心理的負担ばかりを募らせてしまったような気がしている。


──止まない暴走した想像力──


これからますます、重たい決断を強いられることだろう。いま、頭のなかでは「こうする」と固く決めていることでも、いざその決断を迫られたとき、気持ちが、こころがどんな反応を示すのか?

なんとなく、そのときの状況が眼に浮かぶ。

母は、今夜の話題はなかったことのように、手渡したスポーツ新聞に夢中だった。


「わたしは長生きし過ぎた」


母が突然に、和かなトーンで口を開いた。


「女性の平均年齢よりまだ下だから、長生きとは言えないけど、家系のなかでは1番かもね」


そうぼくが応えると、母はこう訊ねてきた。


「姉は生きてるのかね?」


叔母が先立って、かれこれ10年近く経つ。母はそれを機に、自分自身の終を意識し始めた。

亡くなったのはぼくが台湾にいたときで、葬儀には行けなかったことなど、当時の経緯や様子を話してみたけれど、母は思い出せないようだった。いや、今夜はもう、そうした話題には興味がない雰囲気だった。

そろそろ面会を切り上げて帰ろうとしたとき、母はおもむろに、プッチーニ作曲〈誰も寝てはならぬ〉のエンディングを歌い出した。


「ヴィンチェロ〜ぉ〜」


わたしは勝つ、という意味のイタリア語だ。


「今度のところは個室だから、音楽を聴けるようにするよ」


「ありがとう。あんたを頼りにしている」


そう言葉を交わしあい、いつものように握手をして、おやすみを伝えた。


「あったかい手やなぁ」


この5年半の間、母はぼくが手を引くたび、何度もそう伝えてくれた。

今夜初めて、暖かな手がぼくに授けられたことを、こころから「良かった」と思った。


西の空を見上げると、新月からほんの僅かに満たされ始めた三日月が浮かんでいた。そばに輝いているのは、金星だろうか?

そっと閉じたまぶたから頰を滑り落ちた、ひと雫のなみだ──。

今夜、そんな気持ちで空を見上げたのは、きっとぼくだけじゃない。


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