【狂乱の波間に】
2018年2月6日
夕方、外で遊ぶ子供たちの帰宅を促す地域放送が流れたとき、ふと窓から空を見上げると、美しい夕陽の陽射しが目に入ってきた。
「今日の空を母と見つめたい」
咄嗟にそう感じて、途中だったことをすべてそのままに、面会へ向かった。
施設に着くと、あいにく母は窓から空が見渡せる大広間にはいなかった。母の席にある椅子には、寒さを感じたときのためにと用意していたフリースのジャケットが背もたれにかけられていた。
──この冬、初めてのこと──
少し気がかりになったけれど、「いつものように夕方の休憩時間で横になっているに違いない」と思い、そのまま居室に向かった。
顔を合わせてみると、心なしか、元気がないように見えた。
──疲れているのか? それとも風邪でも引き掛けているのか?──
普段と特別変わることのない繰り返される会話にどうにか変化をつけようと、色んな話題を投げかけてみる──。
ここ最近、何度も伝えているけれど、なかなか憶えてはもらえない大切なこと
──来年の春にも観てもらいたい仕事がある──
を今日も話題にしながら、自虐的に笑いを誘おうとしたときだった。
「満足いく仕事をやり遂げても、期待した評価はなかなか得られないままなんだ。やっぱり、憧れた偉人たちのように、あの世に行ってからのかな?」
「わたしが代わりにあの世にいったるから、きっともうすぐやで」
思わぬ母の切り返しに、自然と口元が緩んだ。そういう母の話術は、今も衰えていないらしい。
話をしていると、だいぶ元気がでてきた様子だったが、途中、職員の方が来られて、食事のことについて簡単に現状の時報告があった。
「最近また、食が細くなられていて…」
母はあるときから、米を食べなくなった。今でも主食は特別に、麺類かパンにしていただいている。白米の味気なさが苦手なのかと考え、入所時に「鰻のたれ」を持たせたら、それが予想通り効果を発揮したことがあったので、「また持ってきてもらいたい」とのことだった。
思えば自宅では、ガーリックパウダーにごま油を混ぜてみたり、昆布と梅干し、大葉を叩いて佃煮のようにしたりと工夫していたが、結局、それが今、仇となってしまったようだ。
食が楽しめないのも元気がでない理由のひとつなのだろう。
「しっかり食べなきゃ」
普通なら、そう声を掛けるところだが、ぼくはもう、そんな口は聞かないことにしている。
「そろそろ、お迎えの支度を整えようとしているんだね」
食が進まないのは、きっと味だけの問題ではない。
──人は自ずと、食べることができなくなる方が、自然──
ながく母を看てきて、そう思うようになった。
自宅で看ていたとき、特に入退院後、やせ細った身体を元に戻そうと、母の好物料理をたくさん拵えて、太らせようと必死だった。当時は、まだ食欲も旺盛だったので、ケアマネジャーから驚かれるほどの回復ぶりをみせたこともあったけれど、時が過ぎれば、当然のように徐々に食は細り、咀嚼力も弱り始め、葉物や筋張ったものは噛みきれなくなり、並行して嚥下機能にも衰えが見え始めた。
対応策としてできたことといえば、入歯の調整に始まり、定期的に訪問口腔ケアをお願いしたくらい。もちろん、食材を細かく刻んだり、大好きなにぎり寿司も喉に詰まらることがないよう半分に分けたりといったことなども行ったけれど、大きく改善はされなかった。
──今、当時を振り返る──
なぜ、あんなに必死になっていたのだろう?
──きっと、意地になっていたんだ──
すべての可能性を信じる──。
母のためというより、それはほとんど、自分のためだった。
そう気づかされたのは、もう、ぼくひとりの手で、母を自宅では看られないとわかってからのことだった。そのときまでに、もう随分とながい時間を費やしていた。
週3回のリハビリ、総合病院の診療科目を全て網羅するほど毎月2度3度と繰り返される通院、定期的なケアマネジャーとの面談…。たまに仮病を使ってリハビリを休みたいと駄々をこねる母をなだめたときには、「ぼくも子供のころ、こうして母を困らせていたんだな」と、想像したりしたこともあった。
あれから思えば、今は随分と平穏な日常がある。
──なのに、ぼくのこころは、今も揺れ動いている──
それは、あの日々よりも、そのときが確実に近づいていることを絶えず感じているからに他ならない。
──狂乱の波間に彷徨う──
酒場に沈むのも、音楽に溺れるのも、今のぼくには同じことだ。
──そんな夜を過ごすのも無駄じゃない──
無論、何一つ、無駄にはしない。
これは、母が与えてくれた、最後に乗り越えるべき試練だから。
夕暮れに、燃え盛る夕陽を観た。感嘆したのは、丘の上にある施設へと登っていく坂道の途中からの図だった。いつか歩いて、その坂を行こう。天高く火柱をあげるように煌めくあの光を、暮れゆくまで見つめていたい。
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