主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと

【母の予言】

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2020年2月5日

「人生やり残しなし」

被介護者になってから、母は幾度となくこの言葉を口にしていた。月に一度行われる介護サービス担当者会議では、今月の目標を訊ねるケアマネージャーにいつもこう言い放っていた。


「やりたいことはぜんぶやった」


ぼくはそんな母の言葉を受けて、毎度、願いを込めてさらに付け加えた。


「その言葉を口にするのは、健やかにあの世にたどり着いてからにして下さい」


──まだやり残していることがある──


母にそう自覚してもらうために、である。

あれからもう、7年ほど時間が過ぎた。


午前9時──。


昼夜逆転仕事人のぼくにしては珍しく、その日の約束は朝一番からだった。

先日、母の87歳の誕生会を催していただいたのだが、その前から、熱を発したり体調が不安定な状態が頻繁に見受けられるようになったという。全体的な身体機能も衰えてきているので、いざというときのために、家族の意思確認を改めてする必要があるとのことで、医師の説明を受けに朝から施設へ向かった。

元々夜型の暮らしなうえに、いくつか並行している仕事もあり、結局前夜もほとんど眠ることはなかった。このところ、寝不足のときの気づけに、熱い目のシャワーを首元に当てることがなかば習慣になっている──こんなことをしているから不調がいまだ燻っているに違いない──その日の朝も同じ作法で心身を強制起動すると、不思議といつも以上に気力に溢れた状態となった。

道中、今一度、これまでの経緯を振り返っていた。一番大切なのは、母の意思を尊重すること。その旨は、入所時に伝えている。


──無理な延命はしない──


「見取介護」をしていただけることが、この特別養護老人ホームを選んだ理由のひとつである。入所前の面談で確認したのは、真っ先にそのことだった。

それは、実際に起きた例として文献で学んでいた「我が家が望まない現実」があるからだった。例えば、まず予め考えておかなければならないのは「胃ろう」についてである。母の意思では「必要ない」とのことだったが、容態が急変して救急搬送され、入院となり、体力低下で胃ろうを余儀なくされるケースがあるのだという。命を守る使命のある医療機関では当然の対応だが、問題は、胃ろうを本人や家族が拒否した場合に起こるらしい。病院から退院後、元にいた施設へ戻る際、「胃ろう処置を施していない状態では受け入れられない」といったケースも起こりうるというのだ。

もしもそうなってしまった場合、ほかの受け入れ先を探すというのは現実的ではない。結果、胃ろうを選択せざるを得なくなり、本人の意思に反することになりかねない。

母に、何も思い残すことなく先立ってもらうためのお手伝いをする──それが介護者としてのぼくの務めだった。


──二人のための選択──


介護者として日々を過ごしながら、母にもずっとそう伝えてきた。これからの選択はすべて、二人のためのもの──そうは言っても、やはりどこかで、互いに犠牲にしなくてはならないことや辛抱が必要だった。

ならばせめて、最期は母の意思もぼくの願いも叶えたい。どれだけ準備しても必ず約束されることはない「健やかなる終」を果たし得たい──いつからか、ずっとそう思い続けてきた。

意思確認の当日、手短に状況の説明があった。初めてお目にかかる医師だったが、きちんと名乗って挨拶をして下さったのが、何よりも安心感を与えてくれた。


「見取介護をご希望とのことですが、気持ちの変化はありますか?」


そう訊ねられ、不意に口を突いた言葉に自分でも驚いた。


「そのためにここにきました」


気持ちの揺らぎは一切なかった。溢れくる想いも湧いてはこず──ここまで心情の変化は、それだけ永い時間を費やしてきた証だった。

承諾書にサインを記し、母の教えに則って、今回も実印を押して役目を終えた(本件の承諾書に実印は不要)。

その間、母は、住み慣れた施設の居間で、朝食を摂っていた。嚥下機能も低下した今では、100%ペースト状にされた食事になっているが、その日も全量食べ切っていた。もともと色白な肌は日焼けしない環境で暮らしていることもありさらに白さを増して、艶々としている。そして変わらぬ笑顔が、今もある。

和やかな空気が、今日もこの施設を包んでいる。振り返れば、まさにここへ導かれるかのようにやってきたのだ。母の変わらぬ笑顔は、この場の和やかさを映しているのかもしれない。

帰り道、ひとり家路を急ぐなか、久しぶりに気づきを得た。


「人生やり残しなし」


あの母の言葉は、予言だったのだ。このまま突発的なことが起きぬまま老衰というかたちで終を迎えられたら・・・母の予言はまさに現実となる。そして我が母なら、それを成し遂げるに違いない。


──祈ること──


ぼくにできる残された役目は、もうそのことだけになった。


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