主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと

【涙のスイッチ(1)】

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2019年4月1日

ある日曜日の夜、出張帰りの東京駅での出来事──。

それは、品川駅を過ぎたときだった。大半の乗客が降車し、車両内が急に静まり返った。そしてぼくは突然に、嗚咽した。

夕暮れ──無事に現場を終え、機材をパッキングして休んでいると、歩くこともままらないほどの疲れがぼくを襲っていることに気づいた。目の前の壁に掛けられた時計を見つめながら、まもなく現場を発たないと指定した新幹線に間に合わないことはわかっていた。しかし、立ち上がる気持ちが湧かなかった。

予定よりだいぶ遅れて現場を後にし、身体を引きずるように駅へ向けて歩き出した。スーツケースを身体の前に置き、取手を両手で掴み背を丸めて歩くのがやっとの状態──その様は、お年寄りが歩行補助のために使うバギーを押しながら歩いているのとまったく同じだった。


──道路の少しの段差も苦に感じる──


ガタガタとスーツケースを揺らしながらゆっくりと歩を進めていると、自ずと母のことを思い出した。


──母はバギーを使いこなせなかった──


少しでも外出して歩く機会を増やそうと用意したころには、母の脚力はすっかり弱り果てていたのだ。


──座席は、進行方向最後列──


出張時、大きな荷物を携えているぼくは、常に進行方向最後列の座席を押さえることにしている。背後にあるスペースに荷物を置くためだ。その日はせっかくの指定券を無駄にしてしまい自由席に乗る必要があったため、定位置が確保できるか少将不安だった。

そんな心配をよそに、期待通りの座席を確保できた。慣れた手つきで機材を収めたスーツケースを座席の後ろに横たえ、終点の東京まで席を立たないつもりで窓際に腰を沈めた。普段はほとんど倒さないリクライニングシートを態度の悪い輩と思われるがごとく深く倒し、到着まで眠ろうとしていた。

出発間際になったとき、子連れの母親の姿が目に入った。3歳くらいの男の子の手を引きながら乳母車に赤ん坊を乗せて席を探している様子だった。

都合よく並びの席が見つからなかった様子で、男の子をひとつ前の座席に、ご本人と赤ん坊はぼくの隣の空席に座ろうとされた。


「代わりますよ」


あんなに疲れているときでも、自然と口が開き身体を動かせたのは不思議だった。けれど、よほど疲れ切っていたのだろう。脚元の電源コンセントに携帯電話の充電器を差していたらことも忘れて立ち上がったため、ケーブルに脚を絡めてつまずきかけ、ガタガタと音を立てながら歩き出し、思わぬところで周囲の注目を集めてしまった。

座席を移ったあたりからの記憶がない。いつものように、耳は音楽で塞いだ。聴いていたアルバムの曲間には、赤ん坊の鳴き声が挿入されてくる。


──みんなこうして育てられた──


子供の鳴き声を聴くたび、呼び覚ますことさえできない幼いころの記憶を思い返してみる。


──使うことを許されなかったグリーン席──


それは、ぼくがまだ物心つく前のことだったらしい。もちろん憶えてはいないけれど、母に何度も聞かされたそのときの様子は、想像の中でぼくの記憶と化し、今も時おり呼び覚まされる。その夜のようなエピソードがトリガーになって──。


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