主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと

【母の誕生日とパンと婚姻届】

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2019年1月17日

今日もまたこの日を無事に迎えられた幸運を噛み締めていた。

今日は、母の86歳の誕生日──周りはそのことを伝えようとするも、本人はそのことを思い出せなかった。まるでそれは、生まれたばかりの赤子が、その瞬間が自分の誕生のときであることを知ることがないのと同じことだった。

ぼくも遠い遠い昔に、理由も分からず祝福されていた幼子の時代があったのだ。しかし、そのときの周りの反応は、今日のぼくたちとは明らかに違っていたことだろう。

施設で企画して下さった誕生会だった。お祝いの歌、母が食べたいと希望を出した出前も準備して下さった。それでもそのときの母は、体調が優れなかったのか、ほとんど手をつけられなかった。ぼくが焼いて持って行ったパンも投げ返すような状態だった。

祝いのパンは、義歯が新しくなったばかりの母には咀嚼して食べるということは難しいと思われた。このときのために施設では真新しい義歯で咀嚼訓練を実施して下さっていたのだが、だからといって、その日その時に無理なく食べてもらえるという期待が叶えられるわけではない。


──これは儀式──


ぼくは、いつからか母との時間をそう感じるようになった。今日の儀式には、母に食べてもらうことより大切なことがあった。


──ぼくがパンを焼くほど丁寧な暮らしをしている──


そのことを母に伝えたかったのだ。

不発に終わった誕生会の帰り道、夕陽を背に車をひとりで走らせ、ぼくはそのことに気づいた。そして、こうして一つひとつ、お別れの儀式を重ねていくことが、ぼくにとっての支度なのだとも。

もう、十分過ぎるほどの時間を母と過ごした。ぼくの年齢を考えると、もしもこれから誰かと人生を過ごすことになったとしても、母との時間以上の年月を共に過ごすことは恐らくできない──それくらいの永い永い時間だったのだ。なのにまだ支度が必要なのか? この6年、介護者として母をこれまで以上にみまもる日々まで授けてもらったというのに…。

そんなことを思いながら、込み上げてくるものを抑えて家路を急いだ。この道は、かつて同じ施設をショートステイで利用していたころ、母と通った道だ。もうこの道を、母と行くことは、ない。


──大きな使命がある──


今日は、大安。約束した婚姻届にサインをする日でもあった。

ぼくをよく知る人ならお分かりだろう。言うまでもない。証人としてのサインである。


「名前が決まったあとすぐに作ったんや」


母から授かった見事な実印を、心を込めて押した。この実印は、これまで数々の仕事の契約書に署名捺印する際に使ってきたものだが、この6年の間は、母の介護に関わる契約のためだけに押されるだけになっていた。


「実印は使うほどいいことがある」
「名は体を表す──名前は大きく堂々と書くんや」


母はそう教えてくれたが、この6年、介護サービスとの契約のたび、署名捺印をしながら「これでいいのか?」と自問してきた。


──その先に幸せがあった──


あまりに見事な物語である。こんなエピソードが待ち受けているなんて…。


──ぼくを、婚姻の証人に指名して下さった人たちがいる──


その事実は、ぼくを育てるために注いでくれた母の献身を讃えるものでもあるはずだ。

嗚呼…。

どんなに言葉を重ねても、未だに拭えないものがある。

ぼくはすべて、遂に何もかもやりきったのだ。母に健やかなる終を迎えてもらうために全力を尽くしてきた──気力、知力、体力、資本、時間…そして、こころ──その全てを、ときに果てるまで注いだ。母がそうしてくれたのと同じように…。今日の母の虚ろな表情は、ぼくへの労いに他ならない。


──支度は、整った──


去年の暮れ、何かを間に合わせるかのようにこの家中を片付けていた。そんなあるとき、不意に「整った」という感覚を得た。師走の寒さに静まる凛とした空気のなかで、どこからともなく澄み渡るような気持ちがやってきたことを憶えている。あれは、誕生日を迎える少し前のことだった。それはきっと、このことだったのだろう。

短い誕生会のあと、疲れて床に伏した母の穏やかな表情を撮影した。カメラを向けると、手すりの隙間からこちらに顔を向けてくれた。4年前、脳梗塞を起こした直後にも入院していたベッドで母の写真を撮ったことがあった。その頃に比べると、今はだいぶやせ細っている。けれど不思議と、ぼくには今の方がいい表情に見える。

これから、母と会う日はカメラを携えていくことにした。迫り来るその瞬間から目を逸らさないように、しっかりと支度の整えられたその日を心に刻みたい。


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