主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと。そして、それからのこと。

【最後の契約(2)──感謝のエール】

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2018年11月21日

「どこのどなた様ですか?」


最近の会話の始まりはいつもこうだ。そんなときは、部屋に飾ってある名前入りの写真をみせる。すると、一時的ではあるが思い出せるようだ。写真を見ると、少し目に涙を浮かべたような表情で、母は顔をくしゃくしゃにして満面の笑みを返してくれる。そしてぼくの顔と写真を見比べながら、言葉にならない声を発する。その意味が何かわかる必要はない。


──今ここで、ぼくと母は顔を合わせて笑っている──


それだけで十分なのだ。

今の母には記憶することはできないとわかりながら、今日の契約のことを伝えた。


これが最後の契約になること──
ルールを守らないと追い出されるかもしれないこと──
たくさん契約を交わしてきたこと──
実印の押し方が慣れてきたこと──


そんなことを母に伝えていると、自然と、母がぼくの子供時代にどれだけの手と頭と身体を動かして時間を割いてくれたのか?──そんな想像が一気に湧いた。


──母の決断がなければ、ぼくはいない──


母がぼくを生んでくれなければ、ぼくという存在さえなかったのだという、実に当たり前のことに改めて気づかされる。


──とても大切なことなのに、当たり前のことはいつだって忘れてしまいがちになる──


「たくさんのことをありがとう」
「ぼくを生んでくれたことも、ね」


堪えきれず目を赤くしながらそう伝えると、母は和かに笑いながら応えてくれた。


「おたがいさま! お・た・が・い・さ・ま」
「ありがとう! ありが・とうっ! あ・り・が・と・うー」


入歯が破損したままで発音がおぼつかないことがわかっているのか、語尾を強めて、そのうえクレッシェンドしていくように発声して、ぼくが確かに聴き取れるように繰り返し繰り返し、何度も何度も、そう伝えてくれた。

もしかしたら、あのときばかりは母の脳内チューニングが合っていたのかもしれない。あとどれだけその機会が残されているのかわからない。もうこの先、そんなことはないかもしれない。けれど、あの瞬間だけでもはっきりと母からのエールが聴けたことは、ぼくを抱く見えない大きな力からの褒美のように思えた。

ぼくがお腹にいるとき、父が癌に侵され、母はひとりで余命宣告を受けた。48年前のことである。今よりも未熟な医療のもと、母は当時37歳という年齢で、安全な出産が危ぶまれた。まして女手一つで子供を育てていくには現在よりも困難が予想される時代である。12歳年上だといえ、まだ幼い兄もいる──そんな状況で、主治医はぼくを産むかどうか、母に問うたという。


「ひとり減るから産んどきますわ」


実に母らしい決断だった。

夫に先立たれることがわかった状況での出産──想像を超えた心労と終が迫る父を見守る日々との狭間で相当な負担が掛かったのだろう。ぼくは、予定より一ト月も早くこの世に生を受けた。

そのせいか、逆子の状態での出産となり、へその緒が首に絡まっていた。そのことが原因で産声はなかったという。当然、未熟児としてしばらく保育器に入っていたらしい。首も曲がり頭にも大きなコブがふたつできていたそうだ。生後、京都で名のある按摩さんのところに通って矯正してもらったそうだが、首のねじれとコブの跡はいまでも僅に残っている。


「子を育てて一人前」


ぼくには未だ、子育ての経験がない。けれど、母の介護者としての時間を過ごして、親の偉大さを改めて感じることになった。


──親の介護をしてこそ一人前──


大介護時代、介護危機が目前に迫っているこの国では、じきにそう語られる日がやってきても不思議ではない。

この最後の契約を済ませて、たくさんのことに想いを巡らせている。この想いを、今は未だ想像しない形で社会に還元していきたい。

そのためには「今」を全力で過ごすことが必要だ。


──脇目も振らず、一心不乱に──


母の世代の人々があらゆる危機を乗り越えてきたように、どんなときも、前へ。


──まずは小さな一歩から──


歩み始めれば、自ずと行先は決まってくる。これまで進み続けてきた一歩一歩と同じように、自分を欺くことなく、前を向いて歩こう。


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