主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと。そして、それからのこと。

【父が父になった日】

f:id:kawasek:20180911012359j:image

2018年9月10日

母だけではない。兄の誕生日である9月7日は、父が父になった日でもある。

兄が還暦を迎えた今年、母と父がそれぞれ親になって60年が経った。あいにく、この世で父が父で入られた時間は12年。兄の干支が丁度ひと回りするまでだった。その年、ぼくが生まれた。


──まるで父と入れ代わるように──


父の記憶はない。遺言めいたものも残されていない。今のように手軽に音声や映像が残せる時代ではなかったから、その声や動く姿も知らない。見たことがあるのは、母が残した写真だけだ。

何も知らないゆえに、その不在がぼくには当たり前のことになっていた。最初からなければそれが「常」であり、何も不自由はなかった。

でも、よく憶えているのは、母に「母子家庭であること」を口外しないように言われていたことだ。理由がわからず、そのことだけがとても不思議に思えたことを憶えている。

小学校に上がると、同級生からそのことでからかわれることがあった。そのときも特別傷つくようなことはなかったけれど、母がぼくを余計なことから守ろうとしてくれたことがわかった。

もう少し大人になってからそのときのことを思い返すと、母は、離別の理由を語りたくなかったのではないかと思うようになった。母は自由を求めて京都を出て東京にやってきた。あれこれと家の事情を詮索されたくはなかったに違いない。


──今の時代も、母子家庭には特別な印象があるのだろうか?──


ぼくの育った時代には「鍵っ子」という言葉があった。それは、核家族化の象徴ともいうべき現象だった。両親が働きに出ていて、学校から帰ると家には誰もいない──子供に鍵を持たせることが、それだけ珍しい時代だった。それより前の時代は、昼間に家の鍵を閉めることさえなかったと母から聞いた。常に家には誰かがいて、家の留守を守っていた。「留守番」という言葉は電話機のためのものではないことさえ、もはや知られなくなっているのかもしれない。


──親として60年──


父の墓前は、今日も静かだった。煙草とビールを愛した父には、お気に入りの銘柄を供えることにしている。


「あの人は花を贈ると笑ろうてたわ」


母がそう口にしていたからだ。だから、父には花を供えない。

今日、子供時代に母と通ったスーパーマーケットでお供えのビールと買おうとしたとき、ふと思いついて、クラフトビールを選んでみた。一昨年、ロンドンで出逢ったBREWDOGのPUNK IPAだ。ハイライトのパッケージとカラーリングも揃っていてなかなかいい。

関西といえばアサヒビール──その当時、ビールはビンのラガーだった。お酒はそれしか飲まなかったという父だが、現代ではあいにく存在していない。だからずっとアサヒ スーパードライを選んでいたのだけれど、今日はどいういうわけか、父が味わったことのないタイプのビールを供えたくなった。


──長生きしていれば、こんなビールだって味わえたのに──


いや、きっとそんなことを思ったんじゃない。


──息子たちと酒を酌み交わす夜──


そんな日を迎えて素直に喜ぶような父だったのかどうか、ぼくにはわからない。でも、生きていれば思いもよらないことがたくさん起こる。


──母がぼくを授かったように──


自分がこの世を去ろうとするころにみたぼくの誕生を、父はどう感じたのだろうか?

解のない問いに向き合うことが生きる意味のひとつだとしたら、そのことを問い続けるのは、ぼくの務めに他ならない。

母がこの墓を建てた日のことは今でもよく憶えている。ぼくが16歳のとき──その日、どんな服を着ていたのかも。家族で集合写真を撮るのがとても照れ臭くて、終始浮かない顔をしていたことを母に咎められたことも──あの日、まさかこんな風にして墓に通い詰める時が訪れるだなんて想像できなかった。

今日、いつか自分もここに入ることになるかもしれないのだと、今まで以上に強い実感を覚えた。もしもそれが叶うときがきたら、それは、これから先、ぼくが今まで以上に満たされた時間を過ごすことができた証だ。

30余年前、この墓が建てられたとき、母も同じことを心の奥底で感じていたのかもしれない。


──それを果たすことも我が使命──


そろそろ陽も陰ろうとするころ、小雨が降り始めた。少し風も吹いて、近くにあるまだ葉の残った大きな銀杏の木の枝を揺らした。ぼくは線香に火を灯す──この日のために用意した風除け付きターボライターが早速役に立ったが、今日の物語の終わりに際して、実に色気なくその役割を見事なまでに完遂してしまった。


「そのとき風が吹いて、線香に火が灯せなかった。それはまるで、父がぼくを引き留めているかのような振る舞いに思えた」


──雨が強くなる前に帰ろう──


そんな結びの一行を思い浮かべながら、ぼくは墓前を後にした。


#主夫ロマンティック #介護 #介護者 #介護独身 #シーズン6 #kawaseromantic #母 #特養 #入居中 #川瀬浩介 #元介護者 #墓参り #brewdog #punkipa #hilite #ビール #beer #煙草 #タバコ