主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと

【母が母になった日】

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2018年9月7日

60年前の今日、兄が誕生した。

それはつまり、母が母になって、今日で60年が経ったということになる。

「今」という瞬間は、現在の母にとって認識できない事象になっている。ぼくは未だ体調が優れないままだから「今日」にこだわる意味もなかったかもしれない。しかしどうしても、ぼくは「今日」にこだわりたかった。

最近の母は、自制が効かない。苛立ちの現れなのか、脚を蹴り出してじゃれあってくる。ぼくはそれを制止しながら、都度、穏やかな口調で叱る。


「周りのひとを哀しませてはいけない」
「ぼくはいまとても悲しいよ」


すると母は顔の前で手を合わせて「ごめんなさい」という。無論その反省は、その瞬間だけのことで、同じやりとりが繰り返される。


──兄が還暦を迎えた──


60年前の今日、母が母になったという事実に気づいたのは、そのことを伝えた直後だった。

今の母はその事実を理解することはもちろん、当時のことを想い出すこともできない。


「話はいいから、起こして」


何度もそう伝えては思い通りにならないとわかると、屈託のない笑顔を浮かべながら、また脚が伸びてくる。

このあとの母は、家族ゆえの、病いゆえの言葉をぼくに浴びせた。ぼくは、落胆とも苛立ちとも取れるような口調で応えた。


「じゃあ、お先に──お望み通りあっちで待ってるから」


そのぼくの態度は、甘えだった。

抑揚のないトーンでそう母に伝え、ため息混じりにゆっくりと立ち上がり、椅子を所定の位置に戻した。そしてそのまま一度も振り返らず、母に背を向けたまま退出した。


──また会えるという保証もないのに──


ぼくはなんて非情なのだろう──しかし、あの瞬間の衝撃と苦痛は耐えがたかった。一刻も早くその場から逃げ出すように本能がそうさせたのかもしれない。

そんな態度を示したところで、母にはもう何も伝わらない。それがわかっていても、あのときはそうするほかなかった。

ユニットを出ると、職員の方から声がかかった。つい数日前、予定していた母の歯科受診付添いを体調不良でキャンセルしたからだった。


──入居者のお世話だけでも大変だというのに──


その気遣いがとてもありがたかった。

今日は、表情豊かな空模様をしていた。見上げた空の広さは、2年前に訪れたベルリンの空を思わせるものがあった。


──この空は、ベルリンまで繋がっている──


この空を感じながらひとり車を走らせ、ふと考えた。


──ぼくが親でいられる時間は60年もない──


そう想うと、60年もの時を親として生きた母の歴史に圧倒された。

先週までは、年齢を訊ねられても「84歳」と応えていた母が、今日になってようやく実年齢で応じるようになった。


「わたしは85歳」


ぼくが母の年齢に達するまで、およそ40年。せめて母と同じだけの時間を生きてみたい。

そのときまで、今日の出来事を忘れないでいよう。その日のぼくなら、今日の母の想いを察することができるかもしれないから。


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