主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと。そして、それからのこと。

【言葉にならない意思表示】

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2018年6月15日

梅雨らしい雨降りの日──母に会いに行ったのは、10日ぶりだった。


──明らかに気持ちがざわついている──


全力を出し切ったあとに襲い来るいつもの波が押し寄せてきている。これまでとは比べものにならないほど、今の波は穏やかであるのだが、なかなか母のもとへ顔を出す気にはなれない日が続いた。


「今日もまた雨、か…。」


そんな言い訳を見繕って自宅でうなだれていたのだが、夕暮れに差し掛かるころ、何だか母のことが心配になって、いよいよ身体を起こした。

施設に到着したのは、ちょうど夕食どきだった。

初めてその時間帯にここへ来たが、とても美味しそうな香りが充満していることに驚いた。


──本当に、いい住処ににたどり着くことができたんだな──


そう感じながら母の住まうユニットに入る。食卓をみなさんで囲んで居間にいるはず…と思うも、母は車椅子に腰掛け、居室でひとりで過ごしていた。

配膳などで忙しくされていた職員の方がぼくに気づいて駆け寄ってきて、事情を説明してくださる──。

どうやら、駄々をこねて周りに迷惑をかけてしまったらしい。このところ、聞き分けのない言動が時おり目に余るようになってきていたので、少し心配していたのだが、その事情を伺って、自分にも責任があると感じた。


──言葉にならない意思表示──


今の母にだって、伝えたいことがたくさんあるに違いない。


──それを受け止める相手は、ぼくだ──


母が食事をする様を見つめながら、まだぼくが幼かったころ、仕事で長らく家を空けていた母の帰宅を、ただひたすらに、まさに指折り数えて待ちわびていたときのことを思い返していた。


「もういくつ寝ると、チャーちゃんが帰ってくるからね」


面倒をみてくれていた叔母が、よくそう言ってぼくを慰めてくれた。

今の母は、顔を合わせても、すぐにはぼくが誰だか思い出せなくなってきている。しばらく話をしているうちに記憶が蘇ってくると、少し瞳を潤ませて、ぼくに微笑んでくれる。

あまり思い出せなくなっても未だ「逢いたい」と感じてくれているのかもしれない。


「私があの世へ行くまでよろしくお願いします」


こんな風に、いつもの母の調子で冗談が出始めると、自ずと安心できるから不思議だ。

終の住処に母を送り届けたからといって、大きく変わったことは未だ何もない。日々の介助と絶え間ない気持ちの揺らぎに直面しないというだけで、こうして独りの時間を過ごせば、今までと変わらず、あらゆる感情が全身全霊にこだまする。


──万事が常時になるように──


荒れ狂う波間に佇んでいようとも、それが常であれば、それもまた凪たる時──。

壁掛けのカレンダーに記された詩を見つめる母の姿は、まさに凪ぎたる心のあり様だった。

母の日に贈ったタヌキは、今日も立派な腹太鼓を携えて、終始和かな笑顔をみせている。母は前の施設にいたころのように「タヌキちゃんタヌキちゃん」と声をかけて、笑顔を浮かべている。ふとこちらを向いた母の口元には、デザートの杏仁豆腐がこっそり隠れていて、そろそろ五十路の息子タヌキの顔にも思わず笑みが溢れた。


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