主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと

【母の笑顔があるうちに】

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2018年6月5日

いくつかの大仕事を終えて、久しぶりに母に会いに行った。

今日はぼくのことを思い出せなかったようだけれど、居室に入るなり手を上げて迎え入れてくれた。


「やぁやぁ」


いつもの母だった。


この前一緒にみた《サーカス》のこと、市原湖畔美術館でのパフォーマンスのこと、最近の出来事など、たわいもない話しをいくつかした。そんな取り留めもない会話は、かつて家で過ごしていたころと何も変わらなかった。

先に手渡した愛用のラジオは、使い方を思い出したようで、今日も耳元で賑やかに音を鳴らしていた。英語放送が流れていたので、「英語、憶えているの?」と訊ねると、「もちろんや」と、いつもの冗談が早速口を突いて飛び出してきた。母は、ぼくが中学に入学したころからだいぶ長く、英語やフランス語など数カ国語を勉強していたから、それなりに理解はできたはずなのだけれど、今はどこまでわかるのだろう?

そんな想像をめぐらせながら母の様子を見ていると、ラジオから流れてくるレゲエのビートに合わせて、布団を叩いたり、脚をバタつかせたりし始めた。


──赤児の戯れ──


「子供がそんなことをしたら親は何ていうか憶えてる?」

「しらん」

「埃が立つから静かにしなさいって言うんだよ」


そう伝えると、母はわざとぼくを困らせるようにして、手足をより大きくバタバタさせた。たっぷりの笑顔を浮かべながら。

足先がベッドからはみ出しそうになったので、布団をめくって覗いてみると、珍しく、素足だった。冬場は必ず靴下を履いて床に就く母だが──暑い夏がまた近づいてきている。

驚いたのは、足の甲がやけにツルツルとしていたことだ。車椅子生活で歩いていないことも影響しているのだろう。しかし決して弱々しくは見えず、薄っすらと透き通るように赤や青の血管が映るその肌は、美しささえ感じさせていた。

今、ぼくが疲れ過ぎているせいでもあるのだろう。些細なことで、気持ちが揺さぶられる。このまま何もせず過ごすと、再び闇と対峙することになるから、そうさせないためにも、と、帰りは水泳に向かうことにしていた。


──せめて水と戯れるだけでも──


そう思いつつ、最初のキックで伸びやかに水中に身を放つと、一瞬にして爽快感に包まれ、無駄な思考から解き放たれた。

途中、休憩しながら、ちびっ子たちの水泳教室の様子を眺めていた。初級コースらしく、まずは水に慣れることから挑戦していた。コーチが抱っこしながら、顔を水に浸けて浮かぶ練習──とても優しい教え方だった。

観ていると、やっぱり男の子の方が怖がりさんが多いらしい。ぼくも幼いころ、同じだった。


──おぞましい記憶が残っている──


まだ浮き輪をして水遊びをしていた時代、母に胴から抱え上げられて、頭ごと水面から何度も沈められたことがある。泣きじゃくるぼくの悲鳴などお構いなしで、繰り返し何度も…。


──母はまさにスパルタ教育者だったのだ──


そのおかげか、水泳もかなり早く上達したように思う。華麗ではなかったにせよ、ひと通りの泳法がこなせたし、クラス対抗の水泳大会では、いつも選抜メンバーだった。

今再び、こうして水に戯れているのも、そんな出来事があったから。母も水泳が好きだった。75歳まで毎週2回はプールで泳いでいた。下手なりにバタフライまで取り組んでいた。

40台後半で、ダイビングの国際ライセンスも取得した。当時家族で沖縄まで出掛けたのは、確かぼくが小学4年生のころ。本島から離れた慶良間諸島の民宿に泊まって、新宿育ちのぼくには未体験の暗転の夜を過ごした。降り注ぐ星空を見上げてその輝きに目を丸くして、捕まえたヤドカリに貝だけ残して逃げられて、アタリがでたアイスキャンディーを交換に行ったら「離島では輸送費が掛かるから交換できないんだよ」と教えられて、火傷するほど激しく日焼けして、ノリの効いたシーツに悶絶しながら過ごした沖縄での短い夏の日──透き通った碧く美しい海とは裏腹に、当時からサンゴ礁は破壊され始めていたことを目撃したり、たくさんのことを学ばせてくれた。

母はただ、自分が楽しもうとしていただけなのだろう。

それはきっと、今でも変わることはない。

母は毎日毎日、今を楽しんでいる。口では「退屈や」と言いながらも。

だって、楽しくなければ、こんな笑顔はみせられないから。

もしかすると、母から伝わるものがなくなったときこそ、いよいよ、その瞬間が間近に迫ってくるサインなのかもしれない。

今は顔を合わせられる時間が限られているけれど、そのひとつひとつを見逃さないようにしたい。何かを感じて、いつかそこから育んだことを何かの形で表現できるように。

それがきっと、母への恩返しになる。


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