主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと。そして、それからのこと。

【元介護者になった日】

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2018年4月27日

今日の午後、予定通り、一切の滞りなく、母を特別養護老人ホームに入居させた。

これで、ぼくの介護者としての日々は終わった。よほどの事情がない限り、母が自宅に戻ることはないだろうし、今後長期に渡ってぼくが介助する理由もない。洗濯はもちろん、散髪も施設にお任せできる。場合によっては、通院の付添いもお願いできる。主治医も提携されている近隣の病院の方に変更することにした。交流会や外出も計画されているようだが、すべて施設の主導となる──母はここで、ゆっくりと、不自由になりつつある身体から解き放たれるその時を待ち侘びる。


──そっと、静かに──


昼過ぎ、特養入居のために必要な品品をまとめ、約束の時間に母を迎えるため、11ヶ月の間お世話になった介護老人保健施設へ向かった。


──ぼくが泣くんだろうな──


──母の涙は見たことがない──


こういう場面での母は、いつだって笑顔だった。

到着してエレベーターを待っていると、後ろから声をかけられた。母の面倒をみて下さっていた職員の方だった。


「昼休みに入るのでお見送りに立ち会えませんが、本当にありがとうございました」


その方はかつて、リハビリ意欲のない母に今後継続して機会を与えるかどうかを決める会議のとき、「職員の皆さんの気持ちのご負担を軽減したい」というぼくの言葉を受けて、深々と頭を下げてくださった。お別れの日にお目にかかれて、ぼくも少し気持ちが和らいだけれど、そのとき既に胸いっぱいで、ほとんど言葉を発することができなかった。

母が暮らしたユニットに入ると、ケアマネジャーを始め、今日の担当者スタッフが揃って下さっていた。母に簡単に状況を説明し、ぼくは居室で手早く荷造りを始めた。


──Sさんにお礼を伝えたい──


母のよき友人として、ときにアホな会話にも付き合ってくださり、側で見守って下さっていた同じ入居者の男性にご挨拶したかった。退所時の書類と処方薬の受け渡しを終えたところで、ユニット内に目をやると、車椅子を押したいつものSさんの姿が目に留まった。

こちらから歩み寄って、言葉をかけると、ぼくはもう、堪え切れない気持ちになって、震わせた声を隠すのに必死になった。いくつか感謝の言葉を贈る──少し寂しそうにして下さっているSさんの表情が印象的だった。それを察して、続けて声をかけた。


「また母のような変な入居者の方がいらっしゃると思います」

「お母さんほどおかしな人はいないよ」


──男の照れ隠し──


いつまでもぼくたち男は、こういう口の利き方しかできないらしい。でも、そう言って下さったことが、ぼくはとても嬉しかった。溢れそうなものを抑えるどころか、その言葉が返って拍車をかけたことは言うまでもない。

入居者のみなさんを見守るためユニットに残る職員のみなさんにご挨拶をして、他数名の方に付き添われながら、あのたぬきのいるエレベーターホールに向かった。

すると不思議なことに、あのたぬきの置物まで別れを惜しむようにしているではないか!

背丈ほどある配膳用のカートが複数台、たぬきとの対面を遮るようにして立ちふさがっていたのだ。見送って下さる職員の皆さんもそれに気づいて、搔き分けるようにしてカートを移動させ、母とたぬきの別れの対面を実らせてくれた。

母はいつもと変わらず、そしてどこへいくのかもよくわからないまま、たぬきのお腹をさすったり叩いたりして楽しんでいた。

正面玄関から外へ出て、自家用車に母を移乗させると、助手席に上手く乗れた母に、そして、さも介護の専門職かのような手際の良さで介助するぼくに向けて、感嘆の声と拍手が贈られた。

母は、ケアマネジャーと握手を交わして、いつもぼくにするように、力を込めて手を強く引いた。未だ変わることのない、いつもの母の笑顔がそこにあった。


──「次は、ぼくがお世話になるころにまた来ます」──


案じていたほど号泣するには至らなかったけれど、気持ちはとうに溢れかえっていた。その場で思いついたオチのセリフにキレが足りなかったのは、きっとそのせいに違いない。


──見送る──


見えなくなるまで、手を振って下さっていたことだろう。背中にその視線を感じながら、とめどなく溢れてくるものを抑えられなかった。特養に到着するまで収まらなかったら…そんな心配をしてしまうくらいに。


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