主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと

【甘えたっていい】

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2018年3月16日

先の静岡出張中に報告が届いた母の義歯破損の件──その修復のため、今日は遥々、母が30年お世話になっている横浜の歯科医院まで付き添った。

通常、行きは車で1時間、帰りは渋滞に巻き込まれて2時間はかかる道のり。1番心配なのは、母の体力が持つかどうかである。

今日は、緊急でお願いして予約を入れていただいたこともあり、いつもより1時間遅い時刻からの診察開始予定だった。そのため、下り線の渋滞を案じて、2時間前に母を迎えに行った。

到着するなり、職員の方から報告があった。


「昨日あたりから座る姿勢も崩れていて元気がない様子です」


早速、母の居室へ行き様子を伺うと、確かにいつも以上にぼんやりした印象で元気がない。ベッドに横たわる姿も、少々心配になる雰囲気を醸し出していた。

すぐさま歯科医院に連絡を入れた。次週明けてから早い日にちで対応いただけそうなら延期するべきかと思ったが、既に予約の空きがなかったうえに、義歯破損により通常の食事が摂れなくなってきている問題を早く解消したかったこともあり、30分ほど猶予をいただき、母の様子を伺うことにした。

居室でしばらく話をしていると、虚ろだった表情も冴えてきて、口調も普段の雰囲気が戻ってきた。起き上がれるかと問うと、顔を歪めながらも自力でベッドに腰掛けようと努めてくれた。結果、起き上がるには介助が必要だったけれど、顔色もよく、しばらくベッドに腰掛けて座っていられる状態だったので、上着を着せて、車椅子へ移乗させた。

ベッドサイドに置いた、母の愛した名指揮者=クラウディオ・アバドの写真に手を振りながら、母の口から突然に厳しい言葉が飛び出す。


アバドさん、息子がイジメます」


そんな言葉が本心なのかどうなのか? もはや気にはしなくなっていたつもりだったが、今日はやけに不安にかられる気分だった。


──朗らかな母が喪われていくのだろうか?──


学んだ知識では、認知機能が衰えると暴力的になったり介護を拒否したりといった事態が起こりうるらしい。今の母がとにかくこれまで通り穏やかで明るく過ごしてくれていることもあって、そんなたった一言でも、ぼくはだいぶ過敏になってしまう。

横浜へ向かう道中も、母が口にする言葉が気になって仕方がなかった。


「この先にいくと、もうすぐ我が家やな」


入歯がないせいもあって、ちょっとロレツが回らない感じで、母は前方を指差しながらそう繰り返した。


──家で過ごせたら──


そう願う気持ちは、ぼくも同じだけれど、今、それを伝えても、その言葉は役目を果たさない。ただただ前方を注意しながら、運転を続けた。

今日も変わらず、プッチーニ作曲〈誰も寝てはならぬ〉を聴きながらの移動だった。パヴァロッティの歌唱によって世界に広められたあのテノールのためのアリアだ。

母はこの曲を聴いて、時おり一緒に歌うことを楽しみにしている。今日も飽きずに、往復3時間の間、わずか3分ほどの録音を繰り返し繰り返し聴いていた。

歌の最後の歌詞=「vincero」は、vincereの未来形で「勝つ」という意味だと教えてくれたのは、母だった。それも、つい最近のこと。

改めて、この曲の歌詞がどんなことを歌っているのか?


──調べてみる──


今日の心の揺れは、そのせいでもありそうだ。


「これは、生への渇望を綴った歌なのか?」


歌の意味は様々な解釈ができそうだが、ぼくには、そう感じられた。

口では決してそうは言わない母が「私は勝つ」という部分だけ繰り返し歌うのは、本能の叫びなのかもしれない──そう思うと、余計に苦しさが募ってしまう。


──自慢の創造力が、また暴走し始めた──


医院の待合室から、不覚にも、助けを求めた。


「嗚呼、俺は今、酷く甘えているな」


そんな自覚がありながら、ぼくは携帯電話を握りしめていた。

手短にいくつかのやりとりを交わした。たったそれだけで、心の震えが収まっていくのを感じた。今夕、無意識に甘えたその相手は、見事に適任だった。

義歯の損傷は、幸いにも軽度で、診察は1時間ほどの修復と調整で完了した。脚力がますます衰えていく母を全介助で支えながら、再び車に乗せて帰路に就いた。

大渋滞に巻き込まれる覚悟をしながら、第三京浜上り線の入口へ向かう。途中のある信号で停車したとき、標識をみつめてふと気づいた。


──ここ横浜にもたくさんの仲間たちがいる──


顔を合わせたり、話をしたり、今はそんな機会もほとんどないけれど、願いや祈りは、いつだって、その瞬間に届く──今日、ぼくをここに向かわせてくれた母の無意識のちからを、歌に興じる彼女の傍らでひとり感じていた。

第三京浜に乗ると、雨脚はやや強まり始めた。鈍色に染まった空は、ますます色濃くなっていた。


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