主夫ロマンティック

独身中年男子の介護録──母が授けてくれたこと。そして、それからのこと。

【想いは伝わるのか?】

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プリンスの訃報を受けて以来、彼の作品を聴き返している。

 

かつては、そのサウンドばかりに耳がいっていたが、ほんの少し英語を嗜み始めたここ数年は、その歌詞の内容が気になるようになってきた。誰よりも「究極のもの」を求めていたに違いにない彼が、その過程での様々な気づきを歌にした…ぼくにはそんな風に聴こえてくる。そう聴こえるのは、ぼく自身の心象を映しているからかもしれない。

 

彼の訃報を受けた前日の午後、母のことについて新たな決断を迫られることになったのは、ここでも記した通り。解のない問いに向き合うかのごとく、今日も意識のあるときは、ほとんどずっとそのことを考えていた──明日のことは、誰にもわからない──ひとつの選択が、明日を変えてしまうこともある。しかし、次の一手が、そのまた次の一手をどうするべきか、教えてくれるわけじゃない──失敗しても、またやりなおせばいい──だからこそ、後戻りできる選択を…。

 

しかしこの場合、それがどうすることなのか? よくわからないままでいる。

 

母に、いつくかある選択肢のことについて話をするたび、心のなかで感じている。

 

──これは、「これが正解なんだ」と、ぼく自身に言い聞かせるための会話──

 

関係者に状況を説明するためにメールを記しているときもそう。

そして…ここにこんな風に綴っていることも…。

 

どんなに言葉を重ねても、ぼくの感じていることが相手に完全に伝わっているのか? 時折、不安になる。いや、伝わっているのかを案じる以前に、そもそも、ぼくが感じていることをぼく自身が完璧に把握して、それを言葉にできているのか? それさえ危うい。

 

そんなとき、プリンスの詩に耳を傾ける──。

  

And love, it isn't love until it's past (Prince 'Sometimes it snows in April' より)

 

ぼくの気持ちは、もう固まっているのだろう。

母も「任せる」と言ってくれている。

 

本当の大きな決断は、その先にある。

だからいま、一歩前に進まなくちゃいけない。

これは母だけではなく、ぼくはもちろん、家族全員のためでもある。

そう、信じて…。

 

 

 

【迫り来る新たなる決断】

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横浜に2ヶ月だけ借りた仕事場からの図。

 

ここへきて、早くも2週間が過ぎた。

つまりもう、残り6週間だけの仕事場、となっている。

 

海辺の街は、雨の様子もまたひと味違って映るものだ。

 

ここへ向かう前の午前中、先週に母が受けた心臓検査の結果を聞きに病院へ。案じていた通りの結果だった。ここ数ヶ月の間に母に見受けられるようになったいくつかの症状の原因がすべてはっきりした…そんな瞬間だった。

 

そして今また、次男であるぼくに決断が迫られている。


こんなとき、創作のなかに逃げ込めるほどの幸運はない。そのときだけは、何もかも忘れさせてくれるから──。


このところ、決断することについて、改めて考えていたところだった。ひとつの判断基準だけでは、どうにも太刀打ちできない。留まって後悔するより、挑んで失敗して後悔する方が納得できる「場合」もあるが、それが取り返しのつかないことだとしたら…どうするべきか?──時間の許される限り、じっくり考えたい。

 

そのためにも、こうして広い空と海がそばにあることは、とてもありがたい。

 

──後戻りできない選択は、してはならない──

 

いつかの気づきを、今こそ活かすとき。

 

 

 

夜更けに届いたプリンスの訃報に、少々混乱している。

これは、今夜は母のことについて考えるべきではない、というメッセージなのかもしれない。

 

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【これがテレビ電話だよお母さん】

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APPLEがFaceTimeをリリースしたのはいつだったろうか? そもそも通話はほどんどしないし、電話は顔が見えないからいいのだし…テレビ電話だなんて…恥ずかしいから…と、使うあてが見つからないままだったけれど、ついにその日がやってきた。そしてまさか、その最初の相手が母になろうとは! 

 

──未来がやってきた──

 

まさしく「夢にも思わなかった」その日である。改めて、今日という日はなんとも不可思議である、と、二ヶ月限定の仕事場である横浜の、海辺の夕景をFaceTimeで母に中継しながら考えていた(ぼくには通話というより、中継に近い感覚があって、とても素晴らしいと思った)。

 

練習に、目の前からFaceTimeでコールしてみると、特に使い方を教えずとも着信を受けることができることにまず驚いた。そしてその様子を眺めながら、昔から新しもの好きだった母のことを思い出した──頼んでもいないのに、任天堂の家庭用テレビゲーム1号機(テニスやブロック崩しができるモデル)を買ってくるし、ベータ方式のビデオデッキが突然家に届いたときには「音だけじゃなくて、画も撮れるのかっ!?」と、ぼくの方が驚かされたくらいだった。「パソコンに興味がある」と言ったら、どこかからシャープのモニタ一体型モデルをレンタルしてきてくれたほどだし、母が若かったら、iPhoneも誰よりも早く手にしていたことだろう。今の母には、ガラパゴス携帯やテレビのリモコンの方が扱いが難しいらしい。なにせ、ボタンがいっぱいありすぎるからね。

 

さて、次は何が覚えられるかな? Pepperを、どうにか我が家に招きたいのだけれど…。

 

ロボットと柔かな日常を過ごす──その未来を味わう日、やはり長生きはするものだと母は思えるだろうか?

 

ちなみに、【これがテレビ電話だよお母さん】とは、実際には口にしていない。「お母さん」や「ママ」だなんて、母のことを呼んだことはない。これまでなんて呼んでいたんだろう? なんだか恥ずかしくて、きちんと呼んだことがないかもしれない(この暮らしが始まってからは、「あなた」と会話のなかでは使っている)。

 

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【ぼくたちはここにいる】

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今日は早い時間からスタジオにいく予定にしていたのだが、体調が持ちなおさず、自宅作業に切り替えた──風雨が吹き荒れた午前中、母を風呂に入れる前になって、昨日に続いてめまいを覚えた。もしやと思い血圧を測ると、見事予感は的中。降圧剤が効きすぎていたらしい。少し休憩をとってから入浴介助を済ませ、ふたり分の昼を作って、弁当を詰めたころで、ダウンした。そのまま夜中まで眠っていたらしい。目覚めて血圧を測ると、無事正常値に戻っていた。


その後、作業の遅れを取り戻そうと、開発中のシステムのために手配した到着したばかりの新デバイスを認識させるため、マシンの調整に四苦八苦。数時間粘って、ようやく接続に成功。だいぶ遅めの夕食=弁当を頬張った。母は用意しておいた弁当をひとりで食べてくれたらしい。


母はいま「食べる努力」をしてくれているのだろう。詰めておいたぼくのと同じ弁当は、9割以上食べていた。放っておくと、手近に置けるお菓子や甘いものばかりでお腹を満たすから、ひとりの夕食はどうかと案じていたけれど、このところの様子に少し安心している。


母もぼくも、他の誰かを求めないのは、きっとお互いがそばにいられる現実がいまもあるからに違いない──ふと真夜中に、そんなことを思い浮かべた。


さて明日は、朝からごはんを炊こう。前回から試している、もち麦と雑穀入り胚芽米…親子揃って、なかなか気に入っている。


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2016年4月16日深夜 記

【42ヶ月】

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42カ月──母が事故を起こしてから、丁度、3年半が過ぎた。丸3年が経ったとき、なんとなく一区切りついた気がしたけれど、それからもう、さらに半年も時を重ねたことになる。そして今はこうして、母とぼくのために、作り置いたおかずを弁当にする日々が始まっている。以前は、作り置いたおかずを自分で取り分けて食べることができた母だが、徐々にそれもできなくなりつつある。


恐らく1年前のぼくなら、そんな様子をみてはひどく落胆し、苛立ちを隠せなかったに違いない。でも今は、明らかに捉え方が変わっていることが実感できる。自らの問題について治療を始めたことと併せて、ようやく、この現実を受け容れられるようになったのだと、このごろ思うようになった──3年半──長すぎたとは思わない。母との時間が、たくさんの気付きを授けてくれた。そしてまだまだこれからも、それは変わることなく、授けられ続けることだろう。


そのすべてをきちんと受け止められるように、もっともっと、敏感でありたい──母はゆっくりと、背負った荷物を下ろし始めている。この世に思い残すことのないように。いつか、はじめにいた棲家に帰ってゆくために──こうして、母との濃密な日々を過ごせていることを、改めて幸運に思う。あれから3年半を迎えた日の真夜中に。


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2016年4月15日深夜 記

【母たちのセカイ】

今の母にしか感じられない世界


(母と同じ未来がぼくに訪れたとき、どんなに虚しい気持ちになるだろう)

ぼくはこれまで、できないことが増えていく母をみつめては、そんなふうに一方的に嘆いていた。けれど、それはきっと違う──母には今の母にしか感じられない世界がある──今日、そう見方が変わった。


介護施設へ母を預けにいくたびに、介護を必要としている老人だけが同じ場所に集まっている様子に疑問を抱いていた。中にはもう会話もできないほどの方もいる。母がお世話になるので、ぼくも挨拶をと少し言葉を交わすこともあるが、会話にならない場合もいる。母よりもだいぶ症状が進んでいる方が利用されていることが多く、これまでの経験上、そうした中に母を置くと、母も周りにあわせて「ぼんやり」としてしまう。

(預けないで済むように…どうにかして、ぼくがそばで診てあげたい)

母を迎えにいった帰りの車のなかで、いつもそんなことを思い浮かべていた。


けれど、現実を越えることはとてつもなく難しい。ぼくのように独りで診ている場合はなおさらだ。事実、それを果たそうとするばかりに、ぼくの日常は崩壊してしまった(今、必死に建て直そうとしている)。


要介護者だけにしか見えない世界がきっとある


施設でよく見かける、あのテーブルを囲んだ談笑の図のなかには、きっと「母たちだけのセカイ」があるにちがいない。無論、今のぼくには、未だ、そこに観る図を喜ばしくも微笑ましくも感じられないのだけれど、それは「ぼくのセカイ」がなかなか周りに理解されないのと似たようなことなのだろう──今日、突然に「今の母のセカイ」があることを見つめ直した理由は、こんなところにあるのかもしれない。

 

2016年4月2日 夜 

クラウディオ・アバド指揮
ルツェルン祝祭管弦楽団による《マーラー交響曲第1番》のコンサート映像をみつめる母の傍にて

決断を迫られるのはいつもぼく──次男・浩介

2015年10月15日──家の中で転落事故を起し、左側頭部を強打。脳震盪を起こした母は、1週間の入院予定となった。頬の感覚もなく、ぼくが誰かさえわからなくなるほどの状態から、1日経過してどう変化しているのか? 入院翌日の午後、指定された時間に病室へ向かった。そのとき、随分と昔の記憶が蘇ってきた。

37歳という、当時としてはだいぶ高齢でぼくを産んだ母は、とにかくぼくが成人して一人前になるまでは生きなければならない、と、色んな準備をしていた。なにせ、ぼくがお腹にいるころに父の余命宣告がされ、生後7ヶ月半で先さ立たれ母子家庭となってしまったのだから──備えあれば憂いなし──これはまさに母を体現するような言葉だった。

その一環として、ぼくが二十歳を過ぎたころ、還暦を迎えた母は、家系的な高血圧症による脳卒中を心配して、当時まだ一般的ではなかったMRIによる画像診断を受けるといいだした。太ももの付け根からカテーテルを脳まで通し、造影剤を注入した状態での撮影となり、一泊検査が必要になるという。今より随分若かったとはいえ、高齢者の仲間入りをした身での検査だったため、ぼくは少し心配になった。

検査には付き添いが必要ということになり、当時から兄は仕事で多忙ゆえ、今と変わらず、社会との接点の希薄な暮らしをしていた自由人のぼくが付き添うことになった。某大学病院の看板診療科目ゆえ、予約はいつも満杯。検査が始まるまでの問診にも3時間ほど待たされた記憶がある。

ようやく検査の段になり、ストレッチャーに乗せられ手を振りながら運ばれていった母──1時間ほど費やしたろうか? 当日一泊入院する病室で待っていたぼくは、母が戻ってきたとき、その様子をみて驚いた。あまりの変わり様だったからだ。どんな負荷がかかったのか? と疑問がわくほどに疲れ果てた様子でストレッチャーに横たわっていた。その様は、まるで間もなく臨終を迎える老人かのようにぼくには映った。

目をつむり横たわる母の横顔を見つめながら、売店で買ったストローパックの飲み物を与えた記憶が、今、蘇ってきた。

しばらくして、撮影された画像診断の結果を知らされた──次男のぼくに──その話しの内容だけは今でもよく憶えている。

担当医から告げられたのは、脳大動脈瘤を起こしている可能性がある、という望まない結果だった。しかし補足として、血管が入り組んでいる場所にその兆候が見受けられるが、実際にどの程度の状態かは判別できできないため、今すぐ処置すべきかどうか判断できない。経過を見ましょう。と…。

本人に伝えるかどうか判断をその場で迫られ、とっさに「知らせない」選択をした。突然のことで気が動転していたため正確な記憶ではないかもしれないが、いずれにせよ、そのことを母に伝えたのは、それから20年以上の時が過ぎた2015年春。母が脳梗塞を起こして入退院を繰り返したのち、ようやく自宅に戻ってからのことだった──重大な選択は、必ず俺はひとりに迫られる──。

あの日、病院を後にした未だ成人間もないぼくは、歩きながら溢れるものを抑えられなくなっていた──親を亡くすにはまだ早すぎる。幼いころなら、記憶にも残らなかったかもしれない。産まれて間もなく亡くなった父のことは、何も憶えていないから…。

──遠い日の記憶は、実に鮮明だった。そしてその日も、やはりぼくはひとりで母の容態を確認しに病院へ向かっていた。

2015年10月5日未明 記

川瀬浩介