【42ヶ月】
42カ月──母が事故を起こしてから、丁度、3年半が過ぎた。丸3年が経ったとき、なんとなく一区切りついた気がしたけれど、それからもう、さらに半年も時を重ねたことになる。そして今はこうして、母とぼくのために、作り置いたおかずを弁当にする日々が始まっている。以前は、作り置いたおかずを自分で取り分けて食べることができた母だが、徐々にそれもできなくなりつつある。
恐らく1年前のぼくなら、そんな様子をみてはひどく落胆し、苛立ちを隠せなかったに違いない。でも今は、明らかに捉え方が変わっていることが実感できる。自らの問題について治療を始めたことと併せて、ようやく、この現実を受け容れられるようになったのだと、このごろ思うようになった──3年半──長すぎたとは思わない。母との時間が、たくさんの気付きを授けてくれた。そしてまだまだこれからも、それは変わることなく、授けられ続けることだろう。
そのすべてをきちんと受け止められるように、もっともっと、敏感でありたい──母はゆっくりと、背負った荷物を下ろし始めている。この世に思い残すことのないように。いつか、はじめにいた棲家に帰ってゆくために──こうして、母との濃密な日々を過ごせていることを、改めて幸運に思う。あれから3年半を迎えた日の真夜中に。
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2016年4月15日深夜 記
【母たちのセカイ】
今の母にしか感じられない世界
(母と同じ未来がぼくに訪れたとき、どんなに虚しい気持ちになるだろう)
ぼくはこれまで、できないことが増えていく母をみつめては、そんなふうに一方的に嘆いていた。けれど、それはきっと違う──母には今の母にしか感じられない世界がある──今日、そう見方が変わった。
介護施設へ母を預けにいくたびに、介護を必要としている老人だけが同じ場所に集まっている様子に疑問を抱いていた。中にはもう会話もできないほどの方もいる。母がお世話になるので、ぼくも挨拶をと少し言葉を交わすこともあるが、会話にならない場合もいる。母よりもだいぶ症状が進んでいる方が利用されていることが多く、これまでの経験上、そうした中に母を置くと、母も周りにあわせて「ぼんやり」としてしまう。
(預けないで済むように…どうにかして、ぼくがそばで診てあげたい)
母を迎えにいった帰りの車のなかで、いつもそんなことを思い浮かべていた。
けれど、現実を越えることはとてつもなく難しい。ぼくのように独りで診ている場合はなおさらだ。事実、それを果たそうとするばかりに、ぼくの日常は崩壊してしまった(今、必死に建て直そうとしている)。
要介護者だけにしか見えない世界がきっとある
施設でよく見かける、あのテーブルを囲んだ談笑の図のなかには、きっと「母たちだけのセカイ」があるにちがいない。無論、今のぼくには、未だ、そこに観る図を喜ばしくも微笑ましくも感じられないのだけれど、それは「ぼくのセカイ」がなかなか周りに理解されないのと似たようなことなのだろう──今日、突然に「今の母のセカイ」があることを見つめ直した理由は、こんなところにあるのかもしれない。
2016年4月2日 夜
クラウディオ・アバド指揮
ルツェルン祝祭管弦楽団による《マーラー交響曲第1番》のコンサート映像をみつめる母の傍にて
決断を迫られるのはいつもぼく──次男・浩介
2015年10月15日──家の中で転落事故を起し、左側頭部を強打。脳震盪を起こした母は、1週間の入院予定となった。頬の感覚もなく、ぼくが誰かさえわからなくなるほどの状態から、1日経過してどう変化しているのか? 入院翌日の午後、指定された時間に病室へ向かった。そのとき、随分と昔の記憶が蘇ってきた。
37歳という、当時としてはだいぶ高齢でぼくを産んだ母は、とにかくぼくが成人して一人前になるまでは生きなければならない、と、色んな準備をしていた。なにせ、ぼくがお腹にいるころに父の余命宣告がされ、生後7ヶ月半で先さ立たれ母子家庭となってしまったのだから──備えあれば憂いなし──これはまさに母を体現するような言葉だった。
その一環として、ぼくが二十歳を過ぎたころ、還暦を迎えた母は、家系的な高血圧症による脳卒中を心配して、当時まだ一般的ではなかったMRIによる画像診断を受けるといいだした。太ももの付け根からカテーテルを脳まで通し、造影剤を注入した状態での撮影となり、一泊検査が必要になるという。今より随分若かったとはいえ、高齢者の仲間入りをした身での検査だったため、ぼくは少し心配になった。
検査には付き添いが必要ということになり、当時から兄は仕事で多忙ゆえ、今と変わらず、社会との接点の希薄な暮らしをしていた自由人のぼくが付き添うことになった。某大学病院の看板診療科目ゆえ、予約はいつも満杯。検査が始まるまでの問診にも3時間ほど待たされた記憶がある。
ようやく検査の段になり、ストレッチャーに乗せられ手を振りながら運ばれていった母──1時間ほど費やしたろうか? 当日一泊入院する病室で待っていたぼくは、母が戻ってきたとき、その様子をみて驚いた。あまりの変わり様だったからだ。どんな負荷がかかったのか? と疑問がわくほどに疲れ果てた様子でストレッチャーに横たわっていた。その様は、まるで間もなく臨終を迎える老人かのようにぼくには映った。
目をつむり横たわる母の横顔を見つめながら、売店で買ったストローパックの飲み物を与えた記憶が、今、蘇ってきた。
しばらくして、撮影された画像診断の結果を知らされた──次男のぼくに──その話しの内容だけは今でもよく憶えている。
担当医から告げられたのは、脳大動脈瘤を起こしている可能性がある、という望まない結果だった。しかし補足として、血管が入り組んでいる場所にその兆候が見受けられるが、実際にどの程度の状態かは判別できできないため、今すぐ処置すべきかどうか判断できない。経過を見ましょう。と…。
本人に伝えるかどうか判断をその場で迫られ、とっさに「知らせない」選択をした。突然のことで気が動転していたため正確な記憶ではないかもしれないが、いずれにせよ、そのことを母に伝えたのは、それから20年以上の時が過ぎた2015年春。母が脳梗塞を起こして入退院を繰り返したのち、ようやく自宅に戻ってからのことだった──重大な選択は、必ず俺はひとりに迫られる──。
あの日、病院を後にした未だ成人間もないぼくは、歩きながら溢れるものを抑えられなくなっていた──親を亡くすにはまだ早すぎる。幼いころなら、記憶にも残らなかったかもしれない。産まれて間もなく亡くなった父のことは、何も憶えていないから…。
──遠い日の記憶は、実に鮮明だった。そしてその日も、やはりぼくはひとりで母の容態を確認しに病院へ向かっていた。
2015年10月5日未明 記
川瀬浩介
2012年10月15日──始まりの日
素直になりたい。
ぼくはそれだけを願って生きてきた気がする。
母、浩江。
1933年(昭和8年)生まれ。山羊座。
今から6年前──2009年3月14日、母の3つ歳上の姉がなくなった。享年78歳。それからだった。母が死に支度を始めたのは。
ぼくは当時、横浜市からの派遣で、台湾・台北市にある台北國際芸術村(Taipei Artist Village=TAV)に滞在していた。2週間後に迫った現地での個展に向けて滞在制作を進めていたため、やむなく現地に残り、葬儀には出席しないことにさせてもらった。その代わり、現地から叔母の成仏を祈った。葬儀が行われている時間に、台北駅にほど近い滞在先の屋上に独り佇み、台北でできた友人から贈ってもらった線香を焚いた。あまりに広くて殺風景な現地の制作スタジオの寂しさを充してくれたその線香は、独りで挑んだ初めての長期海外滞在の不安を和らげてくれた。父の没後、京都から東京へ移住することになった我が家は、その手続きやらで母は不在気味だった。まだ物心ついたばかりのぼくはきっと寂しかったのだろう。預けられていた叔母によく甘えていた──その叔母のために、異国から線香を──子供のころの様々な記憶が蘇ってきた。あの日は風が強かったことをよく憶えている。
10週間の滞在を終えて帰国してから、母に葬儀の様子などを訊いた。母の様子は特別変わりはなかったが、心の中で「自分の番が近付いている」と感じ始めたような様子が何となく伺えた。
それから母は、身の周りの整理をし始めた。それだけでなく、40年ほど続けてきた体操も止めた。週に二度、ジムに通って水泳も欠かさなかったのは、健康作りと呆け防止が目的だったのだけれど、それも面倒になったらしい。母曰く、計画的に身体を衰えさせようとしたようだ。そしてその企ては、3年後に見事成果を上げることになってしまった。
2012年10月15日──遂にぼくたちは「あの日」を迎えることになった。
前夜、20年暮らしてきた街で催されたアート・フェスティバルの打上げに参加していたぼくは、案の定、遅い時間の帰宅となった。加えて長年の昼夜逆転状態での生活習慣も相まって、いつも通り明け方に就寝し昼ごろまで眠っていた。
たしか時刻は、12時30分ごろだったと記憶している。
あの音をどう表現したらいいのだろう?
これまで聴いたことのない大きな物音が耳に突き刺さった。瞬時に起き上がり、居間のある二階へ駆け上がった。その間、わずか5秒ほど──音を生業とする身だけに、物音の大きさと質から、最悪の事態を想定し、心構えして「現場」を目撃した。
母が台所で倒れていた。
話しかけてみると、辛うじて意識がある様子だった。「救急車を呼ぶから動くな」と伝え電話を取りに一階へ戻り119番。救急要請を終えたところで母の元に戻ると、勝手に起き上がってソファーに腰掛けていた。会話ができたので事情を聞くと、ガスコンロの上に登っていて、そこから転落したらしい。そして左頭部を強打した、と──なぜ?
「換気扇のフィルターを交換しようとした」
母はその数年前から、脚が弱りだしていた。前年の夏には、左膝に突然の痛みがでて動けなくなり、救急で病院へ搬送したこともある。自分の身体の状況を十分知っていたはずなのに、どうしてそんな無謀なことをしたのか? 当時のぼくにはまったく理解できなかった──今になって振り返れば、あのとき既に脳の萎縮がだいぶ進んでいたのだろうと思う──。
救急隊が到着したのは、それから5分ほどあとだった。ぼくが代わって状況を説明していると、母の意識が混乱し始めた。
「なんでこの人たちはここにいるの?」
「自分はどうしてここに座っているの?」
「何があったの?」
記憶に障害が出始めた。典型的な脳震盪の症例だと知ったのは、その後の母の入院期間中のことだった。
3名の救急隊に担ぎ下ろされるような形で家をでた母は、そのまま最寄りの病院へ搬送された。MRIを撮影するまではまだ会話もできていたけれど、撮影後、診断を受けて入院が決定し病室へ移されたころには、意識はだいぶ朦朧としていて会話も覚束なくなっていた。頬を触っても感覚はない様子だし、ぼくが誰かわかるかと尋ねても応答はなかった。不安が過るのと同時に、自ずとむせ返り視界が滲み出した──このまま家には帰れないのか?
入院予定は、一週間。翌朝また様子をみて判断したいと伝えられ、ひとまずぼくは病院を後にした。
その日、午後に次なる展示会場となる東京スカイツリーの現場下見が組まれていた。さらに夜には、友人の作家の映像作品のための音楽打合せも予定されていた。スカイツリーの下見は、救急〜入院対応のため延期せざるを得なくなった。夜の打合せの案件では、先方が気遣って音楽提供自体を見合わせてもらって構わないと申し出てくださったのだけれど、ぼくからお願いして継続してもらった。この現実から逃げたくないと思ったのと、この現実から目を背けるために音楽のなかに逃げ込みたかったのと、裏腹な二つの気持ちが入り混じっていた。
病院を出て家に戻ったぼくは、入院の支度をしてまた病院へ引き返した。荷物を預け再びを病院をでたその足で今度は、この春から構えた横浜のスタジオに向かったはずだが…そこからの記憶があまりない。けれどこんなときは、過去のログが役に立つ。
http://twilog.org/kawasek/date-121015
これを読み返しても思い出せないことばかりだが、少なくともあの夜、これからどんなことが起こるのか? 想像さえしていなかったことだけは確かだった。
あの日から、間もなく3年が経とうとしている。
2015年9月26日未明 記
川瀬浩介
主夫ロマンティック誕生──はじめに
映画《アンダーグラウンド》のラストカットで、自由奔放で破天荒な主人公がこう言い放つ──昔のことは忘れろ──。
確かにそうかもしれない。
母の介護が始まって、まもなく丸3年になる。この期間、ぼく自身にとっても色んなことがあった。キャリアとしても重要な時期に差し掛かり、これまで夢みていた仕事の機会を国内外で頂くも、母の不調がいつもつきまとい、頭を、そして心を痛めた。
助けを求めた家族とも仲違いすることになったし(案じていた通りだった)、ぼくの乱心は、周りにも悪影響を与え、大切な人、掛け替えのない仲間も失うことになった。
無心で、ただひたすらに目の前に立ちはだかる出来事を解決していく日々が2年を過ぎようとしていたころ、今度は、ぼく自身が壊れてしまった。フリーランスとしてそれこそ無心で挑み続けた20年…自ら進んで踏み込んだ茨の道から逃げ出さないように、退路を絶って歩んできたツケが、ここへきて一気にまわり始めた。
母の世話をしている時間、家事をこなしている時間、病院に付き添っている時間、介護関係の面会や手続きをしている時間…ぼくは完全なる無給。後に気づくことになるのは、無給ということは、同時に休みを返上することにもなり「無休」へと近づく。
心身への影響は、計り知れなかった。母譲りの、遺伝性高血圧症を授かったぼくの血圧は、ピーク時、驚くべき数値まで上昇していた。極限状態を緩和しようという言い訳が、ぼくを暴飲暴食へ誘っていた。見事な悪循環…自業自得だった。
時を同じくして、仕事も途絶え気味となった。自ら求めても求めても世に中からは求められないという現実を直視し続けることは、自分自身を切り売りして生きてきた身として、この上ない苦痛に他ならなかった。
そして気付いたときには、闇の中にいた。
それからおよそ1年が経った今も、状況は何も変わっていない。3年目に入って脳梗塞を起こした母の体力が緩やかに低下しつつある現状を見つめれば、状況はより悪化しているとも言えるだろう。ぼくは身の周りを少しずつ整理しつつ、新しい模索を始めたりしながら、これからのことを考えている。
──何がしたい?──
長らく、それがわからなくなっている。
ずいぶん色んなことを経験させてもらった。様々な出逢いが、やりたかったことのほとんどすべてに導いてくれた。母が口癖のようにいう
──やりたいことはすべてやった。人生、思い残しなし──
ぼくにはここまで言い切れるほど、成し遂げたことなどひとつもないけれど、最近になって思うことがある。
──いくつか思い残すくらいがちょうどいいのかもしれない──
母のいう「思い残しなし」という言葉も、もしかすると、そういう意味なのかもしれない。
昔のことなど、きっと忘れてしまうに限るのだろう。
けれど、この3年の月日はぼくにとって無駄ではなかったはずだ。これまで気がつかなかったことに、意識が向くようになったのだから。
現実を見つめるというその営みは、とにかく苦しい。何度も何度も限界を超えてきた。でも、何度超えようとも、限界は際限なくやってくる。
優しく接しようすればするほど独り空回りして、「優しさとは何か?」と自問自答を繰り返し、「自分には優しさの欠片もない」と途方に暮れる毎日…気持ちも追い詰められて、うまくいかないことを母のせいにしては自己嫌悪に陥る…その繰り返し。
それでも、この苦悶の日々は、ぼくに何かを語りかけてくれている気がしてならない。
ここに、この3年の記録を改めて記すことで、今一度、母との日々がぼくに何を伝えようとしているのか? 見つめてみたいと思う。
書式体裁は何も考えていない。
続けられるかどうかも自信がない。
いずれにせよ、結局いつものように自分自身の内面を見つめることになって、苦しむことになるのかもしれない。
それでもなぜか今、「こうすることが必要」だと感じている。
さて、次はいつになるのやら。
2015年9月19日未明 記
川瀬浩介